2015年11月30日月曜日

7 閉じた若者、開いたおじさん

同じ一日に、対照的な2人に会った。

閉じた若者と開いたおじさん、とでも言おうか。

これが非常に表現しづらい。
上手く伝わればいいのだけれど。

まずは、閉じた若者について。
人を受け入れる気がしない。
コミュニケーションの扉が閉じている感じ。

続いて、開いたおじさんについて。
何を話すでもなく、相手を受け入れてくれそうな安定感。

コミュニケーション能力と言えばそこまでなのだが、
当然テクニックの話ではないし、年を重ねたせいだけでもない。

では、何が違うのだろうと考えたのだが、
「身体」なのではないかという気がした。

閉じた若者は体が機能していない。
エネルギーが通っていないように見えた。

生命力、とでも言おうか。

もし自分が元気のない若者を預かることになったら、
その開いたおじさんの仕事を手伝わせてやってくれと頼んだ。
(飲んだ席で無理やり。)

頭でっかちにならず、我武者羅に外で仕事をして、笑って、
怒られて、腹減って、おなかいっぱい食べて、ぐっすり寝る。

おじさんの下で、そんな経験をさせてあげたいと思った。

その開いたおじさんは、
このような仕事やイベントをしている尊敬する友人の一人なのだ。
草むしり.com
ぐんま100㎞ウォーク

2015年11月27日金曜日

6 言葉と釣糸

ブログを毎日書くつもりで再開したが、数日で挫折した。

書けなかった数日も書こうとはして、パソコンには向かったのだが、どうしても出てこなかった。

たぶん「書かねばならない」と自分に強いていたのだろう。

しかし、今日はいくつかの話を同時に書けるくらいの気分だ。

なんのためにブログを書いているのかと言うと、自分の中の言葉の元のようなもやもやとしたものに形を与えることから逃げない訓練だ。

とりあえず公開にしているのは緊張感を持つためで、読んでもらうためにFacebook等に公開するつもりはない。

今のところ。

言葉を心から出すのは、釣りに似ている気がした。

いい餌を垂らしてあげれば、自然に言葉は食いついてくる。
自分の中には引き出されるのを待ってる言葉がたくさんあるのだ。

餌は外界からの刺激かな。

書けなかった時間があって気づくこともある。
無理して、しなければならないとなっても、体も頭も動かないものだと体感した。

でも、書こうとしてるから、言葉という魚も寄って来るのかもしれないね。

2015年11月24日火曜日

5 日常生活即学問

猫が我が家にやって来て2か月半ほど経つ。

当初は、寝室になっていた和室が猫部屋になっていたのだが、
畳が爪で傷だらけになること、
この部屋にある神棚に上ってしまうことなどから、
先日、猫を別の部屋に移した。

改めて、和室に戻ったのだが、ここであることを決めた。
それは、洗濯物を片付けるということだ。

えっ?そんなことと思われるだろうが、
これができていなかった。

先日、陽明学研究家である林田先生とメールでお話しさせて頂いていた際、
仕事が修養よりも上になっていないかと指摘して頂いた。

自分ではそのつもりもなく、心の動きを観ているつもりだったのだが、
よくよく振り返ってみると、良知(高次の自我)の声を聴いて満足して、
それを発揮していない、つまり、行動していないと気付いた。

(私心であるかどうかは)あなた自身が知っていることですから、よくよく細かく省察克治しなければなりません。
ただ、我が心がほんの少しでも偏っているなら、正しい是非の判断を曲げることになるということを、常に恐れることこそが、格物致知なのです。

(『真説「伝習録」入門』180~181頁)

どこかで小事が疎かになっていたと反省した。
心の声が聞こえたら、それをほんの少しでも発揮する。

心の声に敏感になり、無視しないようにしないと、
気づかずに仕事にも日常の他の場面にも雑さが出てしまうと感じた。

2015年11月23日月曜日

4 日常と非日常

3日間の旅(と言っても都内の研修でビジネスホテルにて2泊)から帰宅した。
ほんの数日、近い場所でも環境が変わると、多少は物の見方も変わる気がした。

非日常から日常に。

そう言った瞬間に「日常」と「非日常」は二分する。
日常=平凡、非日常=そうでない、といったように。

何ということもない。日常も非日常も自分の心次第なのだ。

日常だと思うと、新たな発見が少なくなる気がする。
日に新たに過ごせれば、どんな細かいことでも発見はあるはずだ。

「おもしろき こともなき世に おもしろく すみなすものは 心なりけり」

日常を非日常にするのも、非日常を日常にするのも、
自分の心だと感じる朝だった。

2015年11月22日日曜日

3 なぜ言語化から逃げて来たのか

『伝習録』の中で印象に残っている話の一つ。
それは『論語』の、ある一説の解釈についての節だ。

<世に没して、その名が称されないのを憎む>

さて、これをどのように解釈するか。

一般的には「生涯が終わってから、名前の唱えられないことを悩みとする」
という風に読むだろう。

しかし、『伝習録』ではそのように解釈しない。

称の字は、去声(きょせい)と読むべきなのです。
〔つまり、<名のかなわないのを憎む>、本人の名声と実質とが一致しないのを憎む、と理解すべきなのです〕
(中略)
<名声が実力以上に高くなることを君子は恥じる>と同じ意味なのです。
(『真説「伝習録』入門』150頁)

実力が無いことを気にしても、世に知られないことなど気にしない。

自己顕示欲があるとこれが逆になる。
言葉にすることから逃げたのは、自分を実力以上に大きく見せようとしていたのだと思う。

自己顕示欲を満たすのではない言葉との向き合い方を模索したいのだ。

2015年11月21日土曜日

2 言葉にすることから逃げなかった人の話

藤屋先生と並んで、ご指導いただいているのが陽明学研究家の林田明大先生だ。

毎月、林田先生を高崎にお招きし、
姚江の会・群馬という勉強会を開催している。

会での勉強を始めて3年半ほど経過した。
最初は、先生のご著書を読んで、レポートを書いて、発表し合うことから始まった。
現在は『伝習録』という王陽明の語録を読み進めており、2年以上経つ。
来年には完読の予定だ。

王陽明のすごさは、もちろん自分の様々な経験を通じて体得した思想なのだが、
非常に言語化しづらい形の無いものを論理的に伝えることに苦心した様も、
『伝習録』を読んでいて本当に素晴らしいと感じる。

門人もなんとか自分の体感することを伝えようと努力し、王陽明に質問する。
このやり取りが非常に魅力的なのだ。

例えば、以下のようなやり取りがある。

弟子「私は、中の字の意味をまだよく理解できておりません」

陽明「これは、自分の心で体認して分かることなのです。言葉で教え示すことはできないのですが…。中とは天理です」

弟子「どんなものが天理なのでしょうか」

陽明「(心の中から)人欲を去れば、天理がどんなものかが分かるでしょう」

以上、『伝習録』上巻より。

形がなく目に見えない心の中の事柄に名前を与えて説明しているのだから、
文中にあるように「言葉で教え示すことはできない」。

心にある「人欲」を自ら認識しないと、人欲を去ることができない。
だから内を観るしかない。

 「教えてあげたくても、自分が体認したと同じ納得感を境地をそっくりそのまま伝えることができないんだ。自分で体認するしかてがないんだよ」
 という、陽明のじれったい思いが伝わってくるようです。
 ですが、陽明は体験主義・経験主義に陥ってはいません。だからこそ、自得したことを言葉でも伝える工夫と努力を、困難なことへのチャレンジを怠らないのです。
(『真説「伝習録」入門』147頁より)

ここでも言葉で伝える工夫と努力から逃げないことの大切さを教えられる。

2015年11月20日金曜日

1 言葉にすることから逃げない

藤屋伸二先生の勉強会に参加するため、東京に来ている。

藤屋先生は、「日本でドラッカーをもっともわかりやすく伝える男」、
「ドラッカーの伝道師」と呼ばれているドラッカー活用の専門家だ。

先生に教わって、ドラッカーを理解していないことを理解したし、
ドラッカーの魅力がより深まった。

マーケティングやイノベーションなど、
ドラッカー理論の中小企業への活用の仕方や事例を教えて頂き、
地域に密着し、顧客に近い距離にいる中小企業こそ、
先生の説くニッチ戦略が有効だと確信して、
これを地域に持って帰りたいと思い、勉強会に参加している。

今回は地元にお伝えする講師になるための勉強会。
今日から三日間、さらに、今後は毎月一回、継続して学び続ける。

http://niche-strategy.co.jp/membership/host_the_school/

先生から学ばせて頂いて数年経つが、
最近ある重要なことをようやく言語化できた。

それは、本当に伝えたいことを言葉にして定義することから逃げていたということだ。

この現実をはっきりと認めるのに数年かかった気がする。