2015年1月12日月曜日

『花燃ゆ』②第1話より「なぜ学ぶのか」

今日は休日なので、ちょっと話題を変えます。

先日、「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」(群馬県庁昭和庁舎内)のオープニングイベントに、楫取素彦役の大沢たかおさんと彼の最初の妻で松陰の妹、寿役の優香さんが来たようですね。

僕もようやく一週間遅れで見ました。
『花燃ゆ』第一話。タイトルは「人むすぶ妹」。
(文の子役が、井上真央さんに似ていましたね。笑)



描かれたのは、吉田寅次郎(後の吉田松陰)と小田村伊之助(後の楫取素彦)と彼らの家族の紹介と2人の出会いまで。

寅次郎と伊之助を結び付けたのが寅次郎の妹、
文ということで、「人むすぶ妹」。

現在、陽明学を学ばせて頂いているということもあり、
このドラマの中で、彼らが学んだ学問がどのように描かれるかが
個人的な興味でもありましたが、
初回から、二人の「なぜ学ぶか」についての考え方が炸裂しました。

伊之助が河原に置き忘れ、文の弟が拾ってきた禁書を、
文が明倫館にいるであろう伊之助に届けようとして見つかり、
寅次郎の叔父、玉木文之進がその持ち主を学生に問うシーン。

実は長崎でそれと同じ禁書を手に入れていた寅次郎。
懐に隠していたその本を出して言います。

(以下、台詞の部分はネットから引用です。間違っていたらすみません。)

たとえ、よこしまな本を読んだとしても己の頭で考えれば何が佳く何が悪いか
人は分かるはずです!
己の頭で考える事ができる者はかぶれも染まりもしません。

ただ覚えるだけではなく考える事!
それを教えてくれたんは叔父上です!

それにその本はよこしまな本などではありません。

なぜ皆が禁じられた本を読もうとするんか。
知りたいからです。学びたいからです。
変えたいからです。

今までの学問じゃもう日本国は守れん!本当にこん国の事を思う者は知っとる。
死に物狂いで学ばんにゃ、こん国は守れんと!

皆に問いたい。人はなぜ学ぶのか?

私はこう考えます。
学ぶのは知識を得るためでも職を得るためでも出世のためでもない。
人にものを教えるためでも人から尊敬されるためでもない。
己のためじゃ。
己を磨くために人は学ぶんじゃ。


それに続き、伊之助が前に出て言いました。
この時点で二人には面識はありません。

この本は島国である日本国が何をなすべきか教えてくれています。
禁書だからという理由だけで中身も読まず、葬ろうというのは学ぶべき者の
正しい姿ではありません。

人はなぜ学ぶのか。
お役に就くためでも与えられた役割を果たすためでもない。
かりそめの安泰に満足し身の程をわきまえこの無知で世間知らずで何の役にも
立たぬ己のまま生きるなどごめんです!

なぜ学ぶのか?
この世の中のために己がすべき事を知るために学ぶのです!

私は、この長州を…日本国を守りたい。
己を磨き、この国の役に立ちたい。
そのために学びたい。
まだまだ学びたい!


その後、藩主からの許可を得て、2人は江戸に旅立ちます。

「なぜ学ぶのか?」というのは、
「どのように生きるのか?」とつながっていますね。

学びには、知識を身に付けるものと心を鍛え「己を磨く」ものがありますが、
前者のみが学問とみなされ、心学と言うべき後者はなかなか触れる機会がありません。
実利的、効率的な価値が偏重されてきたからでしょう。

特に後者がいかに描かれるかを見ていきたいと思います。

早速、一話から松陰の好きな言葉として、
「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」
(至誠而不動者未之有也)
が出てきましたが、松陰が「己を磨く」ために用いたのが、
この出典である『孟子』です。

余談ですが、松陰亡き後、松下村塾は弟子たちによって継続されるが、
そこで研究されたのは『孟子』であり、『伝習録』(王陽明の語録)だったとのこと。

松下村塾での講義や会話もどのように描かれるか楽しみですが、
一話では「豊臣秀吉とナポレオンはどっちが強いか」みたいな会話だったし、
今後に期待しましょう(笑)。

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