2015年1月31日土曜日

『花燃ゆ』③~「知行合一」と「言行一致」

「花燃ゆ」の第3話を見ました。

その中で、吉田寅次郎が妹の文に言う、このような台詞がありました。

「知行合一という言葉がある。知識だけじゃ意味がない。行いが伴ってこそ、その知識は意味がある。」
















(ネットからどなたかの絵を拝借しました。)

「知行合一」は陽明学の言葉の中で最も知られていますが、
「言行一致」と理解されているケースが多いように思います。

これはそもそも「知っている」ことと「行うこと」を二分しています。

いわば「先知後行」(認識は先、実践は後)。

これに対し、「思い」と「行動」はそもそも一体で分けられない、
というのが王陽明の考えです。

例えば、ゴミが落ちている。
あっ、ゴミだ、と思う。
その時にはすでに手が伸びている。

若しくは思わずとも手が伸びている。

そんな経験は誰にでもあるでしょう。

これに対し、

ゴミが落ちている。
拾うべきだけど、どうしよう。
恥ずかしいし。
そう思って拾う、または拾わない。

この2つの違いは、なんとなく分かって頂けるでしょうか。

日常の中で、例のように、
ゴミを認識して拾うまでの間の葛藤がなければ、
心は常にすっきりした状態だと思います。

しかし、ゴミを拾わなければならない、という知識が先行しまうと、
拾わない自分はダメだ、という思いと行動の分離が起こり、
その結果、自己否定につながることもあるでしょう。

私自身、「言行一致」が義務感になり、
こうした分離が自分を苦しめてきたという経験があります。

この葛藤がなくなれば、日々伸びやかに生活できる。
陽明学を学ばせて頂き、確実に体感してきたことです。

2015年1月29日木曜日

成果をあげる②

昨日のつづきです。

戦略マップを書くことよりも肝心なこと。

それは、当然のことながら、
行動計画まで落とし込み、実際に行動すること。

昨日書いた経営者の方も、
問題解決のための行動を書き出して、
今後、監査の際に話をしていくことにした。

行動しなければ、成果があがらない。

成果をあげると言えば、ドラッカーの言葉を思い出す。
ドラッカーは「成果をあげる能力は修得できる」と言う。

そして、成果をあげる8つの習慣について書いている。
(『経営者の条件』)

(1) なされるべきことを考える
(2) 組織のことを考える
(3) アクションプランをつくる
(4) 意思決定を行う
(5) コミュニケーションを行う
(6) 機会に焦点を合わせる
(7) 会議の生産性をあげる
(8) 「私は」でなく「われわれは」を考える

もうひとつおまけで、
聞け、話すな、を挙げている。

さらに、成果をあげるのは生まれつきの才能でなく、
習慣であるから、他の習慣と同様に身につけられるし、
身につけなければならないと書いている。

先日ブログに書いたように、自分自身、
やることがとっ散らかっているというのは、
まさになされるべきことに専念できていないということ。

なぜそうなるかと言ったら、
なされるべきことは考えなければならず、
したいことをする方が楽だから。
(人を見ているとよくわかるのだが、自分は見ようと思わないと見ない。)

限られた時間の中で成果をあげるには、
体だけでなく頭を動かして考える時間を日常に落とし込まないとならない。

先日のエントロピーの話にも書いたが、
今更ながら、成果をあげるのは習慣だと実感するようになった。

静かな日々を過ごすためにエネルギーを使うということか。

2015年1月28日水曜日

成果をあげる①

今日、ある経営者さんと話した。

その方と話していつも感じることは、素直だなということ。
自分の判断が常に正しいとは限らないということをわかっている。

日々、最前線の幹部の方からお客様の様子を聞いたりして、
商品・サービスづくりに活かしている。

創業3年目だが、独自の市場を作り出しているし、
「誰に」「何を」「どのように」もブレがなく、強みで集客できている。
同業他社は不調が多いだろうが、売上も順調だ。
(差別化できているから、「同業他社」とも言えないかもしれない。)

しかし、中長期的に見ると、社内のオペレーションに問題があるし、
その根源は社員の育成に問題がある。

そのことについて、戦略マップというツールを使って洗い出しをした。

戦略マップは、バランススコアカードという手法の一部に位置づけられるが、
経営を見える化するのに使いやすいので、よく使っている。

こんな感じ。↓













細かい表現は異なることもあるが、
おおよそ上から、
「財務の視点」
「顧客の視点」
「業務プロセスの視点」
「人材と変革の視点」
といった四つの枠からなる。

各要素を矢印で結ぶので、因果関係がわかりやすい。
昨日も面白い発見があった。

戦略マップは当然、自分でも書けるが、
誰かにファシリテーションしてもらう方とより良いと思う。
普段とは異なる視点で見られる。

しかし、肝心なのは書くことでない。

<つづく>

2015年1月27日火曜日

因果

昨日書いたように、
毎年1月は過去に消し忘れた種火が大きくなる気がしていて、
その年のテーマを必然的に気づかされる。

昨年の正月は『法華経を読む』という本の中の、
「絶対肯定」という言葉が妙に記憶に残ったことを覚えている。

で、一年間終わってみたら、市場や顧客は常に合理的だとか、
環境をすべて受け入れることの大事さを感じた年だった気がする。

さてさて、今年はどうなることやら。

アインシュタインの有名な言葉にこんなものがある。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen
(常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。)

自分が自分にする質問には癖があったりする。

だから、本を読んだり、音楽を聴いたり、人と会ったりするのだが、
これも気を付けないと、居心地がいい方向からの問いになる。

先日、マインドマップインストラクター時代の友人から誘われて、
彼のセミナーに参加させて頂いた。

その時に、BE-DO-HAVE、つまり、
どうありたいか、何をしたいか、何が欲しいか、
について考えるワークがあった。

これを見た時、実はすごく違和感があった。

周囲の人を見ると、やりたいこととか欲しいものが出ていたのだけど、
自分はどうありたいかはあっても、欲しいものはパッと思いつかなかった。

で、頭に浮かんだものは、健康とか次の仕事が頂けるような信用のような、
長期的かつ目には見えないものだったりして。

結果を求めるのではなく、良き原因づくりのみに邁進する。
ある方から教わって、普段気に留めていることだ。

時には他人に質問してもらうのも、自分の現時点を確認できて面白い。

2015年1月26日月曜日

最近考えていること~エントロピーについて

師走は考える間もなく過ぎていき、
睦月の半ばから立春にかけて、現在の問題を象徴するような事象が起こる、
というのが自分の今までのパターンだったりする。
(皆さんもそうなのだろうか。)

今日はこの数週間で感じたことを書いてみたい。

まずは、松岡正剛氏の「『松岡正剛の千夜千冊』1043夜」から引用。

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 宇宙の全体や物質の基本的な運動が、大局的にはエントロピーの増大に向かっているのは知られている。どんな物質も放っておけば無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。熱い紅茶を放っておけばやがて紅茶は器と同じ温度になり、器とともに室温と同じになっていく。熱力学ではこれを熱死と言っている。熱死とは無秩序の頂点のことをいう。宙も紅茶も目的はひとつで、ひたすらこの熱死に向かっているわけだ。

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別に今まで手を抜いて生きて来たつもりもないが、
(とは言っても、胸を張ってしっかり生きて来たとは口が裂けても言えないけど。)
振り返ると、明確に意識して来なかったように感じるものがある。

それは「エントロピー」との付き合い方だ。

エントロピーの増大は物理学の大原則で、
簡単に言うと秩序から混沌に向かっていくという法則。

これまで様々なことを考えて取り組んできたことが、
どんどんとっ散らかっている気がしてきたのだ。

「仕舞う」とか「片を付ける」とかせずに進んでいると言うべきか。

いい会社はエネルギーの方向が良く、過剰さがなくて静かだと思う。
そんな話をさせて頂くことがあるのだが、自分自身はそれができていないと反省。

以下、再び引用。

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 ところが地球上の生命が活動をしているときは、これとはまったく逆の現象がおこっているように見える。生命は生物体として熱力学の原理に抵抗するかのように秩序をつくり、これを維持させたり代謝させているのだから、無秩序すなわちエントロピーの増大を拒否しているようなのだ。

 生物もやがては死ぬのだから、大きくいえば熱死を迎えていることになる。しかし、そこにいたるまでが尋常ではない。生命は個体としての生物活動をしているあいだ、ずっとエントロピー(無秩序さの度合)を減らし、なんとか秩序を維持しようとしているようなのである。これをいいかえれば、生命は負のエントロピーを食べているということになる。

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新年最初のお話の中で「投企」という言葉について書いて、
もやっとしたものに言葉を与えられたように感じたが、
何に向かって投企すべきかまでは落とし込めてなかった。

秩序に向かって「企み」を「投げる」。

今まで、エントロピーのことを知ってはいたのに走り続けてしまった。
しかし、自分の時間が有限だということに自覚的になると、
エネルギーの使い方に意識的になるものなのかもしれない。

もう少し早く動けば、ここまでとっ散らからずに済んだのにと思う。
だが、なんとか手綱を自分の手に取り戻したい。

2015年1月23日金曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑦~できないからやっている

さて、このお話は今日で最終回にさせて頂きます。

今日、税理士会からの派遣で、
税務署での確定申告無料相談に従事しました。

その会場でこんなことがありました。

ある60代と思われる女性が相談に来たのですが、
減価償却の部分がきちんと記載されていませんでした。

ここでは減価償却の説明は割愛させて頂きますが、
なかなか理解しづらい部分ではあります。

その女性は亡くなった夫から引き継いだこともあり、
計算の詳細は全く分からないとのことでした。

最初は普通に説明していたのですが、
何度も同じことを質問されたり、
「だから、そうじゃないって」ということが繰り返されるうちに、
私の心は波打ってきました。

イライラして、口調が変わってきたのが自分でもわかりました。

ここで良知が働く訳です。

おいおい、分からないから質問しているのだし、
理解してもらえないのはお前の説明のせいで、
わかるまで丁寧に教えるのが仕事だよ、と。

そこから我に返って、なんとか来年以降の道筋を伝えました。

仕事をしていても、日常生活の中でも、
こうした機会は多数あると思います。

しかし、良知の声に耳を澄ますことを意識しないと、
いつの間にか良知は曇り、感情に振り回されてしまいます。

逆に、良知を発揮するほど、
兆しを感じることができるようになる気がします。

私自身、この通りできていませんが、良知の存在は感じていますし、
「あとがき」にも書かせて頂いた通り、
良知は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はないからこそ、
仲間と一緒に学ばせて頂いています。

最初に、陽明学を勉強して何の役に立つのか、
という話をした気がしますが、仕事に役立つといった「副産物」はあると思います。

でも、これは目的ではなく、「副産物」だということは肝心ではないでしょうか。

最後にこんなエピソードを書いて、終わりにします。

「心学に入ります前は、何事につけても、いちいち為に、為にと、『為』をつけて考えたものでした。仕事に精を出すのは妻子を養う為である、信用を得たい為であるといったように、いつもこの『為』という言葉に縛られ、追っかけ廻されて、窮屈なせわしない思いばかりをしていました。ところが、心学の道に入ってからは、この『為』という曲者に捉われないで工夫修行をするようになりました。ただなんとなく勤めるばかり励むばかりです」
『真説「陽明学」入門』124頁 )

つまり、仕事に役に立つからやるのは私欲ですから、良知を曇らせる訳です。
今後も、ただやるという姿勢で心を正す会にしたいと思っています。

2015年1月22日木曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑥~松下村塾と『伝習録』

吉田松陰亡き後、久坂玄瑞や高杉晋作らの門人たちが、
松下村塾に集まり、松陰の遺文を会読することとしたが、
それとは別に会講日を定めて研究したのが、
『孟子』と『伝習録』だと言われます。

今日は、この2冊の共通点ついて書いてみます。
良知と『孟子』について書いた王陽明の言葉を引用します。

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「良知とは、孟子が〈是非の心は人がみな持っているものだ〉というところの〈是非の心〉のことです。この是非の心は、考えなくても知ることができ、学ばなくても自然にできるものであり、だからこそ良知というのです。」

「善い思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知り、善くない思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知ります。しかも、それは他人がそのことを知ることができません。私たちの心の中だけのことです。」

「今、善悪を区別して、思い(意)を誠にすることを望むのでしたら、ただこの良知の判断力を発揮するしかないのです。というのも、意念、つまり何らかの思いが生じたとして、私たちの心の良知が、すでにその思いが善であることを知ったにもかかわらず、その善い思いを心から好むことをしないで、誠の心にそむいて善い思いを放り出してしまうことがあるとすれば、これは善を悪とするものであって、自分から善を知った良知を曇らせることになるのです。」

(いずれも、『志士の流儀』209~210頁)

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他人の前では善いところを見せていても、
見ていないところでは善くないとわかっていることをすることもできます。
しかし、自分の心の中の是非の心はそれを知っています。

その良知の声を無視し続けると、良知が曇る、
つまりその声が聞こえなくなるということです。

若しくは、私欲から出ている声を良知の声と聞き違えます。

良知を発揮するのは苦労が伴うこともあります。
しかし、努力と工夫が必要だから、
必然的に心を鍛えることに繋がります。

心を鍛えれば、大変なことは確実に減るでしょう。
同じことをしても、楽に感じる人とそうでない人がいる訳ですから。

そして、気づいたら同時にやっている、
つまり、良知が自然と発揮されて行動になっている、
知行合一並進という状態になります。

こうした状態を目指して勉強会を続けています。

<つづく>

2015年1月21日水曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑤~良知

ここ数日書かせて頂いているお話は、
林田明大先生の『真説「陽明学」入門』のあとがきに
文章を書かせて頂いたことから始まりました。

今日は、再度、一部引用から入りたいと思います。
(全文はこちらから。)

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『林田先生に直接ご指導いただくようになり、二年半が経過した。…その間に体感できたことを一言で言えば、この一文が最適ではないだろうか。
 「良知を発揮するというこの一句には、全く欠陥がない」(溝口雄三訳『伝習録』下巻、六十二)

 林田先生から最初にご指導いただいたことは、心の動きを観ることだった。自分の中の「良知」の声、内なる声に耳を澄まし、その声なき声を発揮する、言い換えれば素直に従うことを習慣化するまで工夫と努力を続けるという、そのような「心学」の存在をこれまで知らなかったのだ。

良知」は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はない。これからも「良知」を最高の師として学び続けたい。

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「良知」、そして「致良知(良知を致す)」。

陽明学について、語る時には欠かせない言葉です。
良知について、以前書いた記事から引用します。
(全文はこちらから。)

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布団に入って、さあ寝るか、と思ったら、

「あ、そういえば、明日の午前中、会社で会議があるけど、書類を用意していないな。
カバンに入れておけば安心なんだけど。」

と突然思いつく。

そうすると、次に、
「眠いから寝ちゃえ。明日の朝やればいいや」
という声と、
「今やらないで、明日忘れたらどうするんだ」
という声がして、板挟みになって葛藤が始まる。

このような天使と悪魔が頭の周りをグルグル回るような経験は誰にでもあるだろう。

さらに言えば、すぐにやって良かったということもあれば、
明日の朝やろうと思って忘れて大変なことになったということもあるだろう。
(当然、私もある。つい先日もあった。)

こうしたことは、思いつこうと思って思いついたのではなく、
体の内部から突如として湧き上がってくる。

陽明学では、この声の主を「良知」という。

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 「人の胸中には、それぞれ聖人が宿っています。しかし、ただ自分を信じきれないばかりに、みな自分でそれを葬ってしまっているのです。」(中略)
 「これまでの儒教の教えでは、聖人は人々の外部に存在していた。それも到底近づけそうもないはるか高みに存在していた。ところが陽明学では、聖人がすべての人々の内部に存在しているというのである。」(中略)
 「陽明学の思想の最大の魅力は、心にある崇高な価値の宿り、聖人の宿りを認めるところにあった。」
(『真説「陽明学」入門』109~110頁)

自分の中の聖人を発揮しようと努力と工夫を重ねることで、
迷いがなくなって来たことを感じるし、
もしそうでない時は、その聖人が教えてくれるようになって来た気がします。

<つづく>

2015年1月20日火曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか④~『伝習録』を読む

本日は「陽明学研究会 姚江の会・群馬」の月一回の勉強会でした。

今日は、勉強会で何をやっているのかについてお話しさせてください。

毎月、第3火曜日の16時から18時半まで、
高崎神社社務所をお借りして開催しております。

まずは林田明大先生から、30分ほど、
書籍のご紹介やそれに関するお話を頂きます。

続いて、各人の準備して来た感想文の発表になります。
ひとりの持ち時間は3分で、
読後感・感動、共感した点・分からなかった点・意見を述べます。

現在は、陽明学のバイブルと言われる『伝習録』の完読を目指しております。


『伝習録』を読み始めて、今回で20回目でした。
「下巻」から読み始め、現在は「上巻」を読んでおります。

1回に進むページは、だいたい10ページ前後。

「ひと月でそれしか進まないの?」と思われるかもしれません。

しかし、ページ数は少ないですが、考えながら読むため、
じっくり時間をかけねばなりません。
繰り返し読まなければ、感想を書けないということもあります。
(なかなかの強敵です。笑)

感想文を発表し合った後は、グループディスカッションで、
各自の疑問点や感想について考え、話し合います。

それをまとめてグループ発表し、最後に先生にご解説いただく、
というのが一連の流れです。

参考までに、今回書いた感想文の一部です。

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 「人は、自己の心の本体を十全に発揮しさえすれば、すべてのはたらきはそのまま十全になる。…もしこの心というものが無視されてしまったら、たとえ世間の無数の文物・制度があらかじめ学びとられていたとしても、それらは自己と何のかかわりももたず、要するに装飾にすぎないのだから、いざという時に自分がどうしたらいいかは何もわからない。とはいえ、文物・制度を全く修めなくてもよいというのではない。ただことの先後がわかりさえすれば、道により近づけるということだ。」(85頁)

 「ひたすらこの心を保持して常に現在させること。それが学というものだ。過去・未来のことを思案して何のプラスがあるか。ただ心が放散するだけだ」(94頁)

私自身、頭でっかちで、いらない知識を求めながら血肉になっていなかった時期があっただけに、この文章には非常に共感できた。当時は「足」よりも「不足」に目が行っていたように感じる。今でも焦りや不安を感じることがあるが、これは目の前のことに集中せずに先を見る私欲から来るのだろう。

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同じ文章を読んでも、当然のことながら、まったく違う感想が出て来ます。
それを聞かせて頂くことも気づきが多く、学びが多くなります。

独学していた頃は一読して分かった気になっていました。
しかし、それは分かったということではなかったのだと実感しています。

以前、誰かが、
「行動が変わらなければ、読書は無意味だ」
というようなことを言っていたのを思い出しました。

これの意味が今は分かる気がします。

行動を変えなければならないというよりも、
心が変われば行動は自然と変わるということではないでしょうか。

繰り返し読み、繰り返し考え、繰り返し語り合うという作業は、
一見非効率そうですが、実は最も効果的なのではないかと、
この3年ほどを振り返って感じています。

<つづく>

2015年1月19日月曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか③~自分の心の癖

さて、昨日の続きです。

若干、迷いましたが、恥を忍んで2008年5月5日の記事を旧ブログを転載し、
これをネタにここ数年で学んだことを書いてみます。

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陽明学研究家 林田明大先生の新刊。
これまでの先生の本と比較して、かなり読みやすくなっています。

読みやすくなっているとは言え、内容は濃く、
実例が多いせいか、今の自分には、ハラに落ちることが多かったです。

これを読んだ後、先生の『真説陽明学入門』を再読したら、
理解がより深まった気がしました。

陽明学について、私はまだまだ多くは語れません。
というのも、林田先生の本を読むたびに、
自分に行動が伴っていないことを痛感するから。

つまり、「語ること」と「すること」にギャップがあるな、と。

それでも、自分で様々なことを体感しながら、
「これがもしかしたら知行合一ってやつなのか?」
などと試行錯誤して、その境地に達したいと努めています。

でも、とにかくまだまだです。
(わかっちゃいるけど…、というやつですね。)

うちのスタッフにもこの本を読んでもらいたいので、
配りたいのですが、そんな訳で配ってません。

胸を張って配れるようになろう!と、
ここにこっそり宣言しておきましょう。

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以上、突っ込みどころ満載ですが、あえて何点かに絞って、
7年前の自分に返信を書いてみます。

> 今の自分には、ハラに落ちることが多かったです。
> 理解がより深まった気がしました

3年ほど前から、陽明学研究会 姚江の会で学ばせて頂いていますが、
最初に先生から出た宿題は、自分の心の動きを見ることでした。

例えば、電車の中で隣に人が座った時にどのように心が動くか。
おじさんが座った時とお姉さんが座った時はどう違うか。
車を運転している時に、横から無理な割り込みをされたらどう心が動くか。
分かっていることを人に指摘された時、どんな感情が湧くか。

日常の中で心の動きを見ることがいかに少ないか、
そして、いかに自己中心的な思考をしているかに愕然としました。

これが習慣化してきた今、
「ハラに落ちる」とか「理解が深まった」と書いたことは、
所詮、言葉として理解したつもりになっていたと思います。

> 陽明学について、私はまだまだ多くは語れません。
> というのも、林田先生の本を読むたびに、
> 自分に行動が伴っていないことを痛感するから。

これは違う気がします。
語れないのは、カッコ悪い自分を見せたくない、
そして、自分を良く見せたいという「私欲」があるからではないでしょうか。

これは合気道の審査でも痛感しました。

> つまり、「語ること」と「すること」にギャップがあるな、と。

江戸しぐさの「しぐさ」は「思草」と書くそうです。
つまり「思い」が「行動」として現われるということ。
陽明学の「知行合一」と同義です。

そして、これは無意識でも現われています。

つまり、思っていることはギャップなく行動になっているけど、
それが癖になっているから気づいていないだけかもしれません。

> それでも、自分で様々なことを体感しながら、
> 「これがもしかしたら知行合一ってやつなのか?」
> などと試行錯誤して、その境地に達したいと努めています。
> でも、とにかくまだまだです。
> (わかっちゃいるけど…、というやつですね。)

では、最初に書いたように心の動きを見ること、
そして、自分の中の声なき声を忠実に発揮することから始めてはどうでしょう。

これを「致良知」と言います。これについては後日書きます。

> うちのスタッフにもこの本を読んでもらいたいので、
> 配りたいのですが、そんな訳で配ってません。

「そんな訳」だからこそ配ってはいかがでしょうか。
できていないけど努力と工夫を続けることが大事ではないでしょうか。

以上、過去の自分との対話ですが、
自分の思考の癖が今だから見えることがありますね。

当時のブログを読んでみて、にじみ出ているのは、
自分を大きく見せようという癖のような気がします。

こうした心の癖を見るのはきついから見ないこともできます。
しかし、これを見ることで気づくことが多いのは事実。
陽明学の勉強会を継続している理由の一つは、確実にこれです。

さて、この記事に対して、林田先生がくださったコメントは以下の通りでした。

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分かったら、実践できたら、体得したら、などと考えることに何の意味もありません。あれこれ作為(無駄な思考)を巡らせるのではなく、「これ、面白かった、参考になった、よかったら、読んでみてください」と自然に言えれば、その時あなたは変わります。

まず、自分から変わろうとしなければ、始まりません。まず、変わろうと試みること、考えていても駄目なんです。もっと、気楽に、楽しんで生きてみてください。慎重過ぎますね(笑)。

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…まさにその通りですね(笑)。

<つづく>

2015年1月16日金曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか②~陽明学との出会い

昨日の記事の続きです。

なぜ陽明学の勉強会をやっているのかという話の前に、
林田明大先生の出会いから姚江の会・群馬に至るまでを書いてみたいと思います。
(また長くなりそうですが、お付き合いください。)

2002年(平成14年)4月、31歳から32歳になる年に独立開業しましたが、
振り返ってみると、公私ともに何事も初めての連続でした。

そして、何をやるにしても、自分と向き合わなければならず、
自分がそれまで避けて来たことが原因で問題が噴出しました。

そこから逃げても同じことが起こり続けると思い、
正面から受け止めて自分を変えようとしましたが、
過去と同じやり方では乗り越えられず、
新たな自分の使い方を求めました。

その中で出会い、私の心を惹きつけたのが、
様々な本であり、合気道であり、マインドマップなどの学習法であり、
東洋思想でした。

東洋思想に興味を持つきっかけをくれたのは、
TKC全国会創始者の飯塚毅先生でしたが、その話はまたいつか。

東洋思想を学ぶ中で、陽明学を知り、
偶然、林田先生のご著書に出会いました。

最初に読んだのは『真説「陽明学」入門』だったと思います。
当時、理由は分かりませんでしたが、他の本とは異なる魅力を感じたことを覚えています。

第2部の「陽明学の思想」、
「心即理」、「致良知」、「知行合一」、
「陽明学と感情」、「陽明学とゲーテの思想」などの部分を、
うーんと唸りながら繰り返し読みました。

そして、2008年(平成20年)4月、林田先生の
『イヤな仕事もニッコリやれる陽明学 眠っている能力を引き出す極意』
が発刊されました。


この本について5月5日付の旧ブログに書いたところ、
2日後、ある方からのコメントが入ったのです。

> ■御挨拶と御礼
> ありがとうございます。著者の林田です。

驚きました。

<つづく>

【追伸】
久々に自分の過去のブログを読んでみました。
あまりの軽さにクラクラしました…。
ここに書いていることも、後で読み返したらクラクラするのでしょうか(笑)。

2015年1月15日木曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか①~『真説「陽明学」入門』あとがき

昨日まで、藤屋伸二先生のご著書に当事務所の話を取り上げて頂いたことから、
昨年の振り返りとこれから取り組みたいことについて書かせて頂きました。

引き続き、昨年の振り返りをさせて頂きます。

本に載せて頂いたと言えば、
昨年末はもうひとつ嬉しいことがありました。

「陽明学研究会 姚江の会・群馬」でご指導いただいている
陽明学研究家 林田明大先生のご著書のあとがきに、
原稿用紙2枚ほどの文章を書かせて頂いたのです。

その本は、『真説「陽明学」入門』(増補改訂版)


林田先生の記念すべきデビュー作であり、
先生が命がけで書いたのは後にも先にもこの1冊であり、
さらに、私を陽明学に導いてくれました1冊でもあります。

今回の重版が第六刷というロングセラーですが、
近年の動きを反映させるため「あとがき」を書き直すことになったとのこと。

近年の動きのひとつは、本書の英語版が出ること。
もともとグロービス経営大学院で必読書となっていましたが、
この度、グロービスで英訳され、電子版として発刊されることになりました。

英語版の序文を堀義人学長が書いていて、「あとがき」に掲載されました。

もうひとつの動きが、「陽明学研究会 姚江の会」です。
今回、姚江の会を代表させて頂き、
姚江の会・群馬の3年間で学ばせて頂いたことを書かせて頂きました。

以下、先生のご許可を頂き、「あとがき」の一部を転載させて頂きます。

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増補改訂版あとがき(六刷)

 月に一度のペースで開催される「陽明学研究会 姚江の会・群馬」が高崎市でスタートして三年目を迎えた。高崎市で税理士事務所を開いておられる小澤昌人氏と平成二〇年五月にご縁をいただき、平成二四年四月二〇日に開催された「小澤昌人税理士事務所一〇周年」の私の記念講演がきっかけで、同年六月から陽明学の勉強会をスタートした。
 第一回目からは、拙著『真説「陽明学」入門』を手始めとする一連の私の著書をテキストに陽明学理解を深めていただき、現在は、「陽明学のバイブル」と称される『伝習録』の輪読を行なっている。
 平成二六年には、読者からの要望もあり「陽明学研究会 姚江の会・東京」もスタートした。
 会のことについて私があれこれ述べるよりも、「陽明学研究会 姚江の会」を代表して「姚江の会・群馬」の主宰者の小澤昌人氏に語っていただこう。

 『林田先生に直接ご指導いただくようになり、二年半が経過した。先生のご著書を拝読して感想文を書くことから始まり、現在は『伝習録』の完読を目指している。その間に体感できたことを一言で言えば、この一文が最適ではないだろうか。
 「良知を発揮するというこの一句には、全く欠陥がない」(溝口雄三訳『伝習録』下巻、六十二)
 私はもともと陽明学の熱心な読者ではなかった。自己啓発本の中の一冊が林田先生のご著書だったというだけだ。ところがご縁あって、先生と知り合うことができ、高崎でご講演いただき、その流れで陽明学の勉強会である「姚江の会・群馬」を主宰させていただいている。
 自分一人で先生のご著書と向き合っていた時、陽明学のキーワードである「致良知」「知行合一」「心即理」などを理解した気になっていたが、それは言葉として頭で分かっただけで、体得したわけではなかったと、繰り返し学ばせていただく中で感じている。
 これまでの人生において、学問とは知識をインプットするものだと思い込んでいたが、これとは別に「心学」と呼ばれる心を鍛える学問があったのである。
 林田先生から最初にご指導いただいたことは、心の動きを観ることだった。自分の中の「良知」の声、内なる声に耳を澄まし、その声なき声を発揮する、言い換えれば素直に従うことを習慣化するまで工夫と努力を続けるという、そのような「心学」の存在をこれまで知らなかったのだ。
 学び始めた頃よりも、日常の中で「知行合一とはこういうことだろうか」とふと感じることが増えた。勉強会では、疑問を持ち合って仲間と語る。かっこつけずに自分をさらけ出す。さらに先生にご意見をいただく。会を始めるまでは自分一人で勉強していたからこそ、このような方法が効果的だということを実感している。この場を借りて、先生と仲間に感謝を申し上げたい。
 「良知」は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はない。これからも「良知」を最高の師として学び続けたい。』(平成二六年一二月一一日 小澤昌人)

 
 小澤氏の一文にあるように、陽明学の教えを実践体得するには、陽明学でいう「良知」を自覚することから始めなければならないのだ。私はそのことを、主に日本陽明学から学んできた。

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なぜ陽明学の勉強会をやっているのかという質問を頂くことがあるので、
これまでやってきたことを振り返りながら書いてみたいと思います。

<つづく>

2015年1月14日水曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!⑥

「まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!」というのは、
黒字化の三段活用といったようなものです。

つまり、企業の成長ステージと経営者の姿勢に応じて、
我々がご提供するサービスを変えていきます。

これも藤屋伸二先生が解説するドラッカー理論を参考にさせて頂きました。
(ピンチ=チャンスということで。)

①【改善的なチャンス】
業績不振の企業は改善がチャンスに。基本プレーの構築と徹底。

②【付加価値的なチャンス】
業績が良くなってきたら、基本プレーの再確認と同時に、
強みを活かして専門化・多様化します。

③【革新的なチャンス】
変化が大きな環境では今までのやり方が早晩通用しなくなります。
自社を中期的に革新します。

この3段階を我々のサービスに置き換えます。

①【まず黒字!】
赤字企業や資金繰りを改善しなければならない企業は、
これまで勘で経営しているケースも多いため、
まずは月次決算→モニタリングという基本プレーを徹底するだけでも改善できます。

②【もっと黒字!】
これが出来るようになったら、次は短期経営計画を策定します。
未来から現在を考えると必然的にやることが見えてきます。

③【ずっと黒字!】
さらに中期経営計画で3~5年後を具体的に描いて、
短期計画に落とし込んでいきます。

事務所のホームページに、もう少し具体的に書いてあります。
宜しければご覧ください。
http://ozawamasato.tkcnf.com/pc/free6.html

これまでこの流れが整理できていなかったために、
お客様やスタッフとうまく共有できず、
その結果、ミスマッチを起こした気がします。

今年は、まず、三年後、五年後、十年後にどうありたいかについて、
お客様に聞かせて頂き、我々がお手伝いできることをお話しさせて頂きたいと考えています。

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昨年末に藤屋伸二先生の新著『ドラッカーの黒字戦略』が発刊されました。
「創客塾」で学んでいる中小零細企業の事例も多く載っているので、
自社の経営に応用できる点が多いと思います。


このコンセプトに到るまでを「創客塾」で発表してきましたが、
それをまとめて、数ページに渡って取り上げて頂きました。

「ストーリーとしての『さらに黒字』」という部分(193頁~)です。

昨年の振り返りが長くなりましたが、
一年間の成果をこうした形でまとめて頂けて、
本当にありがたく思っております。

藤屋先生、また、一緒に勉強させて頂いた塾生の皆様、
ありがとうございました。

2015年1月13日火曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!⑤

前回からの続きです。

お客様がどのように自社の強みを評価してくださったかを知ると同時に、
別の問題が出てきました。

しかも、なかなかの数でした。
すべてを書くことは企業秘密として控えさせて頂きます(笑)。

その中でも、最も根幹的な問題は、
望んでいないお客様に必要以上のサービスをしようとし、
必要としているお客様に必要なサービスができず、
さらにお客様の潜在的なニーズに応え切れていないのではないか、
と、こう書くと致命的な疑問でした。

こうしたことを恥を忍んで書かせて頂くことにしたのは、
おそらく我々だけではないと考えるからです。

お客様の声を聴かせて頂くのは、正直言うと、最初は抵抗がありました。
自分が良かれと思うことを否定されるのが怖かったのだと思います。
しかし、自分のことを客観的に見るのは、やはり難しいし、
客観的な意見を聞かないと、自分の強みも弱みもわかりません。

経営は環境適応だと言われます。
昨年、孫子関連の本が売れたようですが、有名な一文、
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」というやつです。

こうして考えていくと、自社のサービスもお客様と一緒に作り上げていくものだし、
ビジネス=問題解決だというのも腑に落ちてきました。

さて、いかにお客様と向き合いきれていないか反省すると同時に、
スタッフとも向き合っていないのではないかと別の疑問に発展するのですが、
この話はまたの機会に。
(家庭でも同じことが起こってますね。笑)

そこから、ああでもない、こうでもないと考えて、結果としてまとまったのが、
「まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!」というコンセプトでした。

<つづく>

2015年1月12日月曜日

『花燃ゆ』②第1話より「なぜ学ぶのか」

今日は休日なので、ちょっと話題を変えます。

先日、「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」(群馬県庁昭和庁舎内)のオープニングイベントに、楫取素彦役の大沢たかおさんと彼の最初の妻で松陰の妹、寿役の優香さんが来たようですね。

僕もようやく一週間遅れで見ました。
『花燃ゆ』第一話。タイトルは「人むすぶ妹」。
(文の子役が、井上真央さんに似ていましたね。笑)



描かれたのは、吉田寅次郎(後の吉田松陰)と小田村伊之助(後の楫取素彦)と彼らの家族の紹介と2人の出会いまで。

寅次郎と伊之助を結び付けたのが寅次郎の妹、
文ということで、「人むすぶ妹」。

現在、陽明学を学ばせて頂いているということもあり、
このドラマの中で、彼らが学んだ学問がどのように描かれるかが
個人的な興味でもありましたが、
初回から、二人の「なぜ学ぶか」についての考え方が炸裂しました。

伊之助が河原に置き忘れ、文の弟が拾ってきた禁書を、
文が明倫館にいるであろう伊之助に届けようとして見つかり、
寅次郎の叔父、玉木文之進がその持ち主を学生に問うシーン。

実は長崎でそれと同じ禁書を手に入れていた寅次郎。
懐に隠していたその本を出して言います。

(以下、台詞の部分はネットから引用です。間違っていたらすみません。)

たとえ、よこしまな本を読んだとしても己の頭で考えれば何が佳く何が悪いか
人は分かるはずです!
己の頭で考える事ができる者はかぶれも染まりもしません。

ただ覚えるだけではなく考える事!
それを教えてくれたんは叔父上です!

それにその本はよこしまな本などではありません。

なぜ皆が禁じられた本を読もうとするんか。
知りたいからです。学びたいからです。
変えたいからです。

今までの学問じゃもう日本国は守れん!本当にこん国の事を思う者は知っとる。
死に物狂いで学ばんにゃ、こん国は守れんと!

皆に問いたい。人はなぜ学ぶのか?

私はこう考えます。
学ぶのは知識を得るためでも職を得るためでも出世のためでもない。
人にものを教えるためでも人から尊敬されるためでもない。
己のためじゃ。
己を磨くために人は学ぶんじゃ。


それに続き、伊之助が前に出て言いました。
この時点で二人には面識はありません。

この本は島国である日本国が何をなすべきか教えてくれています。
禁書だからという理由だけで中身も読まず、葬ろうというのは学ぶべき者の
正しい姿ではありません。

人はなぜ学ぶのか。
お役に就くためでも与えられた役割を果たすためでもない。
かりそめの安泰に満足し身の程をわきまえこの無知で世間知らずで何の役にも
立たぬ己のまま生きるなどごめんです!

なぜ学ぶのか?
この世の中のために己がすべき事を知るために学ぶのです!

私は、この長州を…日本国を守りたい。
己を磨き、この国の役に立ちたい。
そのために学びたい。
まだまだ学びたい!


その後、藩主からの許可を得て、2人は江戸に旅立ちます。

「なぜ学ぶのか?」というのは、
「どのように生きるのか?」とつながっていますね。

学びには、知識を身に付けるものと心を鍛え「己を磨く」ものがありますが、
前者のみが学問とみなされ、心学と言うべき後者はなかなか触れる機会がありません。
実利的、効率的な価値が偏重されてきたからでしょう。

特に後者がいかに描かれるかを見ていきたいと思います。

早速、一話から松陰の好きな言葉として、
「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」
(至誠而不動者未之有也)
が出てきましたが、松陰が「己を磨く」ために用いたのが、
この出典である『孟子』です。

余談ですが、松陰亡き後、松下村塾は弟子たちによって継続されるが、
そこで研究されたのは『孟子』であり、『伝習録』(王陽明の語録)だったとのこと。

松下村塾での講義や会話もどのように描かれるか楽しみですが、
一話では「豊臣秀吉とナポレオンはどっちが強いか」みたいな会話だったし、
今後に期待しましょう(笑)。

2015年1月9日金曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!④

「あなたは何屋ですか?」と聞かれたら、何と答えますか。

「そりゃ花屋だよ。」
「魚屋でしょ。」

それはその通りです。
売っている商品を見ればわかりますよね。

しかし、昨日も書いたように、
お客様は商品を買っているのではなく、
お金を払ってでも解決したい問題や欲求を解決する手段を買っています。

では、花屋さんや魚屋さんは、
お客様のどんな問題や欲求を解決しているのでしょう。
意外と考えたことが無いことに気づきませんか。

これには絶対的な正解はありません。

花屋は「人間関係円滑業」とか「記念日盛り上げ業」とか。
魚屋は「健康増進業」とか「家族思い業」とか。

御社はいかがでしょう。

これは、お客様のどのような問題・欲求を解消しているのかによって変わりますし、
さらにそのように定義すると、商品も花や魚だけではなくなる可能性が広がります。
(ご興味がある方は物理的ドメイン、機能的ドメインなどと検索してみてください。)

昨日は第2木曜日ということで、当事務所で主催している
「たかさき戦略社長塾」でした。

普段はランチェスター戦略を中心としたインプットの勉強会ですが、
3ケ月に一度、経営計画発表会と題し、
自社が目指す方向と3ケ月の実行予定を発表し、
それについて参加者同士でディスカッションしています。

これが結構面白い。

昨日は、全く別の業種のメンバーで集まりましたが、
誰もがお客様や地域の問題解決業だという話になりました。
(私なら、税務や会計の知識を用いて問題解決するということです。)

そして、自社で解決し切れない問題は「連携」して解決する。
(連携については、またいつか書きます。)

「私は〇〇屋です。」という思考のメンバーがいないのは、
この勉強会で繰り返し学んできた成果だと、嬉しく思っています。

さて、では、うちの事務所はお客様のどんな「困った」「もっと○○したい」を、
どんな「強み」で解決してきたのでしょう。

もちろんどのお客様も同じ回答ではありませんが、
我々がこのようなお客様との関係が理想だと考える方々の意見を集約すると、
決算・申告ができないから依頼しているのではなく、
「(永続する)会社づくりのパートナー」と評価してくださいました。

自社では気づかない視点でアドバイスがあり、
時には厳しい意見も言ってくれる。

そういった点を評価して頂いていたは嬉しいことでした。

しかし、一つの霧が晴れると同時に、別の疑問が出て来たのです。

<つづく>

2015年1月8日木曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!③

昨日は、見たくない現実を見て頂くのが
会計事務所の存在意義だと思うという話をしました。

ところで、御社の強みは何でしょうか?

「うちは何の強みも無いよ。」という方もいらっしゃると思いますが、
では、なぜお客様は御社から商品やサービスを購入するのでしょう。

それは強みがあるからではないでしょうか。

購入の決定権は100%お客様が持っていて、
しかも競合他社・商品がゼロではない状況で買ってもらえるということは、
それらと比べて、何らかの差別化ができているということではないでしょうか。

お客様は商品を買っているのではなく、
お金を払ってでも解決したい問題や欲求を解決する手段を買っています。

では、うちの事務所は、
「誰の」、どんな「困った」や「もっと○○したい」を解決しているのだろう。
さらに、そのような機会に対し、どのような強みがあるのだろう。

藤屋先生から頂いたアドバイスは、
顧客に買ってくれている理由を聞くこと、
過去の成功と失敗を分析することでした。

実際にやってみました。

目からウロコでした。

そして、気付いたのは、
お客様が買いたい物でなく、
自分が売りたい物を売っていたのではないか、
ということです。

<つづく>

2015年1月7日水曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!②

昨日の続きです。

見たくない現実は見よう見ようと思いながらも、
また見ているつもりになっていても、
実は結構見るのが大変です。

なぜなら見なくても済んでしまうから。
回避は人の本能みたいなものです。

自分一人だと回避すると分かっているから、
僕のような自分に甘い人間は他人の力を借りるしかありません。

特に、普段、「先生」とか言われてしまうと、分かった気になるんです(笑)。
お恥ずかしいけど、それが現実。言葉は本当に怖い。

さらに言えば、現状維持バイアス。
こいつも強敵です。

大きな状況変化が起こらない限り、変化を拒み、
現状維持を志向する心の習性みたいなものです。

今は何とかなっていても、この先はどうなるか分からない。
でも、変化は大変だから現状維持したがるのも心の弱さ。

これも他人の力を借りるほうが良い。

だから、塾に通っています。

さてさて、なぜにこのような話を書いたのでしょうか。
実は、会計事務所の存在意義はここにあると考えているからです。

<つづく>

(追伸)
たかさき戦略社長塾でもよく話すのは、
できていることでなくできていないことに着目して欲しいということ。
知らず知らずに楽な方に視線は行きがちなので。
そういう機会として、社長塾も使って欲しいと思っています。

2015年1月6日火曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!①

引き続き、昨年の振り返りを。

一年間様々なことを考えてきましたが、
事務所のコンセプト作りについては悩みました。

我々の地域における存在意義です。
やるからには無くても変わらない、ではなく、
無くては困るという仕事をしたいですよね。

「差別化」という言葉があります。

この言葉もだいぶ一般的になりましたが、
使用する時に注意しなければならないことがあると思います。

それは、
☆ 強みに基づいた顧客から見た他社と違う魅力を持ち、
☆ それによって選ばれ、
☆ 利益に繋げる
ということではないでしょうか。

ただ単に人と違うことをしたとしても、
それによって顧客や市場を魅了できず、
それによって選ばれず、結果として利益も出なければ、
ただの自己満足であって、差別化とは違いますよね。

こうした悶々とした状態を作ってくれたのが、
2年間通っている藤屋伸二先生の「創客塾」です。

運動しないと筋肉が衰えるように、
経営の筋力のようなものも鍛え続けないと衰えると考えています。

そうしたエクササイズの習慣化をお手伝いする場を地元に作りたいと思い、
5年ほど続けさせて頂いているのが「たかさき戦略社長塾」ですが、
私自身が一経営者として修行させて頂く場として通っているのが創客塾です。

通っている中で痛感したことの一つは、
「差別化」を意図して「差別化」できていないということでした。

自分ではできていると思っていただけにショックでもありますが、
見たくない現実を見るために通っているので良いのです。

運と実力で言えば、運の要素が大きかったと思います。
昨日のブログで言えば、「投企」していませんでした。

<つづく>

2015年1月5日月曜日

「企み」を「投げる」~新年のご挨拶

新年、明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

本日から仕事を開始しました。
年末年始で何が変わるわけでもありませんが、「節」は大事ですね。
なんとなく新たな気分でスタートできました。

正月休みは本当にのんびりさせて頂きました。
そうすると普段とは違った物の見方をすることができた気がします。

年末に先輩経営者と話していた時に、簡単に言えば、
分かっていてやってないのは怠惰ではないか、というような話が出ました。

その方はそんなに重く言った訳ではありませんでしたが、
自分にはドスンと響きました。

そして、ふと気づきました。
現実に対して受動的だったかもしれないと。

年末年始に、昨年というよりも、昨年までを振り返って思ったことは、
妥協せずにすべきことをしてきたかということでした。

そんな中で読んだ、昨年末に発売された岡本吏郎さんの新刊、
『中小企業経営者のための本気で使える経営計画の立て方・見直し方』
の中に、ハイデガーの「投企」という概念が載っていました。



そこからの抜粋。

「人は、無理やり世界に投げ込まれた存在かもしれませんが、同時に、新しい可能性を投げ込むことができます。…ただ投げつけられるのではなく、そのぶん、思いっ切り投げ返してやる。そこが人生の面白さだと思います。」 (23頁)

「私たちの将来に対する態度は、『投企』からはほど遠く、問題が発生しないようにひたすら期待しているだけです。そして、そういう期待ですから、後で代償を支払わざるを得ない時が来ることになっています。代償の原因は、遠い過去から、ゆっくりと時間をかけて積み重ねられたものです。ですから、その結果に気づいた時に、”性急”に何かをしようと思っても万事休すです。」(24頁)

「問題が発生しないようにひたすら期待し、同じことを続けていても空気は抜けていきます。ですから、『投企』が必要です。行動を企て、それを投げつけてやるのです。企てがすべて成功するとは限りません。むしろ、失敗は多いでしょう。…それでも、我々は運命(=”構造”)に向かって、企てを投げつけてやらなくてはいけません。」(26頁)

現実からの挑戦を受け止めていただけで、何かを投げ返していたか。
若しくは、投げ返していたとしても、一貫性があったか。

受け身でなく、能動的に「企み」を「投げる」。
昨年からもやっとしていた気分に、ようやく名前を付けられたようです。