2015年12月29日火曜日

10 姚江の会・群馬の原点

友人と話していて、なぜある活動から手を引いたのかという質問を受けた。

これについては以前から一貫していて、
自分よりも他の人がうまくできたり、
もっと興味を持っていることは、
あえて自分がやることもなく、
自分はもっと自分を活かせることをすべきだと思っている、
という話をした。

そこから陽明学の勉強会「姚江の会・群馬」に繋がる。

話しながら、自分なりの理想像があって始めたことだということを思い出した。

帰宅して床に入る前に、手元にあった本が気になって手に取った。
その中に、こんな一文があった。

人間は本来は完全であるから、自力により自己を救済することができるのだという自力主義の貫徹。自力により自得体認して自己の本来性を実現した人々が大同の世界を構成するという理想社会論。
人間存在を弁解を許さぬ限界状況のもとでとらえて、その本来主義と理想論を極点まで謳いあげたところにこそ、『伝習録』の魅力がある。

『王陽明「伝習録」を読む』16頁(吉田公平・講談社学術文庫)

ひとりひとりが「本来性を実現」するのが、豊かな人生を送ることにつながり、
豊かな社会の実現につながるのではないか。

そんな思いで来年も会を継続していきたい。

2015年12月8日火曜日

9 下るから見える景色

お客様の忘年会があり、伊香保に宿泊した。

朝、外を見ると、あまりに遠くの山がきれいだったこともあり、散歩に出た。

近くの道を上ってみた。
なかなか山を見渡せる場所がない。

これはきりがないと思い、あきらめて、
来た道とは違う道を遠回りして下ってみた。

すると、下り坂の途中で、遠くの山までの視界を遮るものがない場所を見つけた。

思わず笑みがこぼれた。
これって生きることとも通ずるかもしれないと思ったのだ。

上ること、前に進むこと、成長することが善だという前提に立っていないか。
いつの間にかそれを疑うこともないのではないか。

自分の足で歩き、景色を見て、風を感じて気づくこともある。

下るからこそ見える景色があるのかもしれない。

2015年12月5日土曜日

8 夢の話

最近は見ないが、怖い夢を見て目を覚ますことがあった。

そんな話を飲んでいる場かどこかでしたところ、
そういう経験はないという人がいて驚いた。

それはそうなのだ。

自分が見ている夢は人が見ている夢とは異なる。

自分は自分の見たことがある夢しか見たことがない。
(しかも、ほとんど覚えていないことが多い。)

自分の夢はカラーだが、白黒だという人もいる。

夢の中で、年齢は不詳だったりする。
自分の姿を見ることがないから分からないのだが。
でも、自分を客観的に見る夢もあるらしい。

夢の中は自由だ。自分を縛る現実と言う制約はまるでない。

海に山に空に冒険をする。
知らない人とも知っている人とも仲良くなる。
行ったこともない場所にも行ける。

いい夢を覚えていた朝はラッキーだと感じるし、
その日は夢を思い出して、にんまりすることもある。
今日はそんな休日だ。

現実と言う制約があるから想像の自由を楽しめるとも言えるが、
所詮、制約を作っているのは自分かもしれない。
だって、やろうと思えばできることも夢にはあるのだから。

2015年11月30日月曜日

7 閉じた若者、開いたおじさん

同じ一日に、対照的な2人に会った。

閉じた若者と開いたおじさん、とでも言おうか。

これが非常に表現しづらい。
上手く伝わればいいのだけれど。

まずは、閉じた若者について。
人を受け入れる気がしない。
コミュニケーションの扉が閉じている感じ。

続いて、開いたおじさんについて。
何を話すでもなく、相手を受け入れてくれそうな安定感。

コミュニケーション能力と言えばそこまでなのだが、
当然テクニックの話ではないし、年を重ねたせいだけでもない。

では、何が違うのだろうと考えたのだが、
「身体」なのではないかという気がした。

閉じた若者は体が機能していない。
エネルギーが通っていないように見えた。

生命力、とでも言おうか。

もし自分が元気のない若者を預かることになったら、
その開いたおじさんの仕事を手伝わせてやってくれと頼んだ。
(飲んだ席で無理やり。)

頭でっかちにならず、我武者羅に外で仕事をして、笑って、
怒られて、腹減って、おなかいっぱい食べて、ぐっすり寝る。

おじさんの下で、そんな経験をさせてあげたいと思った。

その開いたおじさんは、
このような仕事やイベントをしている尊敬する友人の一人なのだ。
草むしり.com
ぐんま100㎞ウォーク

2015年11月27日金曜日

6 言葉と釣糸

ブログを毎日書くつもりで再開したが、数日で挫折した。

書けなかった数日も書こうとはして、パソコンには向かったのだが、どうしても出てこなかった。

たぶん「書かねばならない」と自分に強いていたのだろう。

しかし、今日はいくつかの話を同時に書けるくらいの気分だ。

なんのためにブログを書いているのかと言うと、自分の中の言葉の元のようなもやもやとしたものに形を与えることから逃げない訓練だ。

とりあえず公開にしているのは緊張感を持つためで、読んでもらうためにFacebook等に公開するつもりはない。

今のところ。

言葉を心から出すのは、釣りに似ている気がした。

いい餌を垂らしてあげれば、自然に言葉は食いついてくる。
自分の中には引き出されるのを待ってる言葉がたくさんあるのだ。

餌は外界からの刺激かな。

書けなかった時間があって気づくこともある。
無理して、しなければならないとなっても、体も頭も動かないものだと体感した。

でも、書こうとしてるから、言葉という魚も寄って来るのかもしれないね。

2015年11月24日火曜日

5 日常生活即学問

猫が我が家にやって来て2か月半ほど経つ。

当初は、寝室になっていた和室が猫部屋になっていたのだが、
畳が爪で傷だらけになること、
この部屋にある神棚に上ってしまうことなどから、
先日、猫を別の部屋に移した。

改めて、和室に戻ったのだが、ここであることを決めた。
それは、洗濯物を片付けるということだ。

えっ?そんなことと思われるだろうが、
これができていなかった。

先日、陽明学研究家である林田先生とメールでお話しさせて頂いていた際、
仕事が修養よりも上になっていないかと指摘して頂いた。

自分ではそのつもりもなく、心の動きを観ているつもりだったのだが、
よくよく振り返ってみると、良知(高次の自我)の声を聴いて満足して、
それを発揮していない、つまり、行動していないと気付いた。

(私心であるかどうかは)あなた自身が知っていることですから、よくよく細かく省察克治しなければなりません。
ただ、我が心がほんの少しでも偏っているなら、正しい是非の判断を曲げることになるということを、常に恐れることこそが、格物致知なのです。

(『真説「伝習録」入門』180~181頁)

どこかで小事が疎かになっていたと反省した。
心の声が聞こえたら、それをほんの少しでも発揮する。

心の声に敏感になり、無視しないようにしないと、
気づかずに仕事にも日常の他の場面にも雑さが出てしまうと感じた。

2015年11月23日月曜日

4 日常と非日常

3日間の旅(と言っても都内の研修でビジネスホテルにて2泊)から帰宅した。
ほんの数日、近い場所でも環境が変わると、多少は物の見方も変わる気がした。

非日常から日常に。

そう言った瞬間に「日常」と「非日常」は二分する。
日常=平凡、非日常=そうでない、といったように。

何ということもない。日常も非日常も自分の心次第なのだ。

日常だと思うと、新たな発見が少なくなる気がする。
日に新たに過ごせれば、どんな細かいことでも発見はあるはずだ。

「おもしろき こともなき世に おもしろく すみなすものは 心なりけり」

日常を非日常にするのも、非日常を日常にするのも、
自分の心だと感じる朝だった。

2015年11月22日日曜日

3 なぜ言語化から逃げて来たのか

『伝習録』の中で印象に残っている話の一つ。
それは『論語』の、ある一説の解釈についての節だ。

<世に没して、その名が称されないのを憎む>

さて、これをどのように解釈するか。

一般的には「生涯が終わってから、名前の唱えられないことを悩みとする」
という風に読むだろう。

しかし、『伝習録』ではそのように解釈しない。

称の字は、去声(きょせい)と読むべきなのです。
〔つまり、<名のかなわないのを憎む>、本人の名声と実質とが一致しないのを憎む、と理解すべきなのです〕
(中略)
<名声が実力以上に高くなることを君子は恥じる>と同じ意味なのです。
(『真説「伝習録』入門』150頁)

実力が無いことを気にしても、世に知られないことなど気にしない。

自己顕示欲があるとこれが逆になる。
言葉にすることから逃げたのは、自分を実力以上に大きく見せようとしていたのだと思う。

自己顕示欲を満たすのではない言葉との向き合い方を模索したいのだ。

2015年11月21日土曜日

2 言葉にすることから逃げなかった人の話

藤屋先生と並んで、ご指導いただいているのが陽明学研究家の林田明大先生だ。

毎月、林田先生を高崎にお招きし、
姚江の会・群馬という勉強会を開催している。

会での勉強を始めて3年半ほど経過した。
最初は、先生のご著書を読んで、レポートを書いて、発表し合うことから始まった。
現在は『伝習録』という王陽明の語録を読み進めており、2年以上経つ。
来年には完読の予定だ。

王陽明のすごさは、もちろん自分の様々な経験を通じて体得した思想なのだが、
非常に言語化しづらい形の無いものを論理的に伝えることに苦心した様も、
『伝習録』を読んでいて本当に素晴らしいと感じる。

門人もなんとか自分の体感することを伝えようと努力し、王陽明に質問する。
このやり取りが非常に魅力的なのだ。

例えば、以下のようなやり取りがある。

弟子「私は、中の字の意味をまだよく理解できておりません」

陽明「これは、自分の心で体認して分かることなのです。言葉で教え示すことはできないのですが…。中とは天理です」

弟子「どんなものが天理なのでしょうか」

陽明「(心の中から)人欲を去れば、天理がどんなものかが分かるでしょう」

以上、『伝習録』上巻より。

形がなく目に見えない心の中の事柄に名前を与えて説明しているのだから、
文中にあるように「言葉で教え示すことはできない」。

心にある「人欲」を自ら認識しないと、人欲を去ることができない。
だから内を観るしかない。

 「教えてあげたくても、自分が体認したと同じ納得感を境地をそっくりそのまま伝えることができないんだ。自分で体認するしかてがないんだよ」
 という、陽明のじれったい思いが伝わってくるようです。
 ですが、陽明は体験主義・経験主義に陥ってはいません。だからこそ、自得したことを言葉でも伝える工夫と努力を、困難なことへのチャレンジを怠らないのです。
(『真説「伝習録」入門』147頁より)

ここでも言葉で伝える工夫と努力から逃げないことの大切さを教えられる。

2015年11月20日金曜日

1 言葉にすることから逃げない

藤屋伸二先生の勉強会に参加するため、東京に来ている。

藤屋先生は、「日本でドラッカーをもっともわかりやすく伝える男」、
「ドラッカーの伝道師」と呼ばれているドラッカー活用の専門家だ。

先生に教わって、ドラッカーを理解していないことを理解したし、
ドラッカーの魅力がより深まった。

マーケティングやイノベーションなど、
ドラッカー理論の中小企業への活用の仕方や事例を教えて頂き、
地域に密着し、顧客に近い距離にいる中小企業こそ、
先生の説くニッチ戦略が有効だと確信して、
これを地域に持って帰りたいと思い、勉強会に参加している。

今回は地元にお伝えする講師になるための勉強会。
今日から三日間、さらに、今後は毎月一回、継続して学び続ける。

http://niche-strategy.co.jp/membership/host_the_school/

先生から学ばせて頂いて数年経つが、
最近ある重要なことをようやく言語化できた。

それは、本当に伝えたいことを言葉にして定義することから逃げていたということだ。

この現実をはっきりと認めるのに数年かかった気がする。

2015年9月7日月曜日

狂③

 「聖人」という言葉は、今の我々には、自分と遠くはなれた存在という印象が強い。(中略)だから、聖人を志すことなど、嘲笑されるのがおちである。実は王陽明の当時もそうだった。
 聖人を志した王陽明たちも冷笑された。冷笑したのは、世俗的な名利物欲を追い求めることに熱中する俗学の徒である。彼らはいつでもどこでも多数派である。
 孔子は、理想の追求者を「狂」といった。荘子は、本来あるべき人間の姿を「畸人」(奇人)とのべた。狂・奇の人こそ、実は人々に要請された望ましい生き方であったのである。聖人の道とはこの狂・奇としての生き方であった。人間と禽獣との差異は紙一重だと述べたのは孟子であるが、この紙一重の差にふみとどまって、真に人間として、悪(禽獣であること)から救われてある生き方を求めること、それが聖人の道である。(中略)
 王陽明が後年、ごうごうたる非難をあびるなかで、狂者の気概に居直る発言を公然と表明したのは、真に人間的でありたかった故である。聖人とは決して我々から遠い存在なのではなく、我々に直接する言葉なのである。

(『陽明学からのメッセージ』吉田公平、7~8頁)

放送中の大河ドラマ「花燃ゆ」の中でも、
時々「狂う」という言葉が出て来るが、
このような解説があって意味が分かる。

そうでないと感情の赴くままに行動するのを良しとすることになる。
しかし、「狂」とは「理想の追求者」なのだ。

「狂」は一生追求するべきものだが、
「青年」と名乗れるうちに「狂」を知ることは大事だと考え、
そのような話をさせて頂いた。

自分の心と向き合い、流されずに良知を信じ、
発揮することを心がけたい。

追伸
先ほど引用させて頂いた本の著者である吉田公平先生の講演会を、
9月26日(土)14時から、群馬県安中市の磯部ガーデンで開催します。
詳細は、こちらをご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1673034.html

2015年9月6日日曜日

狂②

富岡青年会議所様の理事セミナーにて、
「おわりに」の部分で、陽明学の話をさせて頂いた。

伝えたかったのは、個イコール組織ということだ。

修己治人、即ち、
自らを高めることと自然と人を感化することはひとつであるということ。

事上磨錬、即ち、
日常生活の中で約束を守るとか仕事とJCを分けないとか、
自分を鍛える場面は多々あるということ。

そういったことを疎かにして、「明るい豊かな社会」はないのではないか。
そのようにな疑問を提起して終わりにした。

最後に、懇親会にて、
もう一つ紹介したのは、
「狂」という言葉だ。

(つづく)

2015年9月5日土曜日

狂①

先日、一般社団法人富岡青年会議所様にて、理事セミナーの講師を務めさせて頂いた。
頂いたテーマは、「組織論から考えるJC経営」。

小松理事長には、何度か私の主宰する社長塾にご参加いただいたこともあり、
組織とはどういうものなのか、理事の方々に「理論的」に話してほしいという依頼を受けた。

なぜ私にお鉢が回って来たかというと、そうでない話をする方が多いからだろう。
武勇伝とか経験論とか。(これも大事ではある。)

我々は凡人だし、誰もがJC活動に多くの時間は割けない。
それでも成果をあげるにはどうしたら良いか。
時には基本に戻ることも必要だ。

ということで、個でなく組織として成果をあげることについて、
ドラッカーの『非営利組織の経営』をベースにお話しさせて頂いた。

JCを卒業させて頂き5年ほど。
不良会員だった私にこのようなお役を頂き心苦しいが、
「理論」を偉大な先人の言葉として伝えさせて頂いても罰は当たらないと思い、
受けさせて頂いた。

教師が教壇から伝えなければいけないことは、ただ一つです。
「私には師がいます。私がみなさんに伝えることは、私が師から伝えていただいたことの一部分にすぎません。
師は私がいま蔵している知識の何倍、何十倍もの知識を蔵していました。
私はそこから私が貧しい器で掬い取ったわずかばかりの知識をみなさんに伝えるためにここにいるのです。」

いつも人前でお話しさせて頂くときは、以前何かの本で読ませて頂いた、
内田樹さんのこの言葉を思い出す。

これならできる、いや、これしかできないのだ。

セミナーの本論が終わって、「おわりに」の部分で話させて頂いたのは、
陽明学の話だ。

(つづく)

2015年9月4日金曜日

「書かれたこと」を読んで「書かれていないこと」を考える ③

実は『大不況には本を読む』にも、同様の話が書いてあった。

 「行間を読む」という言葉があります。文章と文章の間にある「何も書かれていない行間」です。本を読む上で一番重要なのが、この「行間を読む」です。「何も書かれていない部分がどうして読めるのだ」と、文句を言う人なら言うでしょうが、しかし「本を読む」で一番重要なのは、そのことなのです。(中略)
 それこそ二十世紀は「理論の時代」でした。と同時に、二十世紀は「大衆の時代」でもあります。(中略)理論を売る出版も、また「大衆相手の商売」だったからです。(中略)書かれた文字をたどって行けば、すぐ「分かった!」の正解にたどりつける。それは「理論のマニュアル化」であり、「本のファーストフード化」です。(217~218頁)

では、書かれていないことを探すためにどんな本を読んだらいいか。

 時代というものは、「重要なもの」を平気で埋もれさせて行きます。「自分の生きて来た”壁にぶつかってしまった現在”は、そういう重要なものを埋もれさせて来たんだ」と考えることが、今の時代に必要な「過去を振り返る」です。(230頁)

 「本を読む」という行為は、その膨大なるゴミの山の一角に入って、「自分が分担できる片付け」を実行するというほどのものです―それが実のところは「自分のあり方を探す」なのです。(234頁)

 現実はもう「一人の人間の手に負えるもの」ではないのです。だから、みんな手分けするしかない―「問題はどこにあったんだ?」をみんなで手分けして考える。そういうことをしない限りは、「この先」という方向を考えるための基盤は出来上がりません。それなくしての、なんの「未来」か。(235頁)

今、『伝習録』を数年かけてじっくり読んでいる。
150年より前の時代には読まれていた本だ。
『孟子』や『大学』も然り。

発見がたくさんあった。

歴史を乗り越えて来た本の行間から自分のあり方を探し、未来をつくる。
そんな読書を続けていきたい。

2015年9月3日木曜日

「書かれたこと」を読んで「書かれていないこと」を考える ②

『「読み」の整理学』の中で、外山滋比古さんは、
読書には、アルファー読みとベーター読みがあると言う。

単純に言うと、「既知」を読むのがアルファー読み、
「未知」を読むのがベーター読みである。
当然のことながら、読み方は異なる。

この本の中にこのような話が書いてあった。(要約)

近代において、アルファー読みとベーター読みの両極をはっきりさせておく必要が大きくなっている。
かつて本が少なかった時代は、妙な本も少なく、ものを読むと言えば、たいていはベーター読みを想定していた。

ところが、印刷出版文化が発達し、教育が普及し、アルファー読者が多くなった。

こういう読者は昔ながらの古典的書物が読めないが、自分はものを読めると思っているため、アルファー読みでも消化できるような読み物は社会の要求になった。

商売がそれを放っておくはずなく、いわゆるマスコミ文化の中、そういう出版物ばかりになる。

こういう状況だから、ベーター読みをあえて考える必要がある。

(「読みの問題」108~109頁)

一言で「読書」と言うと、すべて同じような行為に見えてしまうが、
アルファー読みとベーター読み、知識のための読書と心を鍛える読書、
実利的な読書と目的を持たない読書、などなど、
本との向き合い方で意味は異なる。

放っておくと、アルファー読みや合目的的な本を読むことが「読書」となってしまう気がする。
改めて、本を読むこと、そして、学ぶことについて考えてみたい。

2015年9月2日水曜日

「書かれたこと」を読んで「書かれていないこと」を考える①

さて、今日からブログを再開してみようと思う。

先日、橋本治さんの『大不況には本を読む』という本を読んだ。
数年前に読んだものだが、なんとなく気になって、
積まれていた本の中から、再び手に取って読んでみた。

産業革命から世界の経済発展、
日本の高度経済成長、それがぶつかった壁。

そんな今、我々は何を学び、考えるべきか。

面白くて一気に読み終えた。終章の畳みかける感じは秀逸だった。

その中で、「本を読む」ことについて、このように書いてあった。

「本を読む」ということは、「書き手の言うことをそのまま受け入れて従う」ことではありません。「書かれていること」を読んで、「そこに書かれていないことを考える」というのが、「本を読む」です。「そこに書かれていないことを考える」が「行間を読む」であるのは、言うまでもありません。

なぜ本に「書かれていないこと」が存在するのかと言えば、「本の書き手の視点」が、「その本の読み手の視点」と必ずしも一致しないからです。

もう一つ、本には「書かれていないこと」が存在する理由があります。それは、本の多くが「過去のこと」を語っていて、「それでどうなんだ?」という「現在から先のこと」を考えるのが読み手の担当だという、「仕組みになっている」からです。

「なんでそういう仕組みになっているのか?」というのは、「愚問」です。そうでなければ、「本を読む」ことに意味がなくなるからです。「読み手にものを考えさせてくれる」というのが本で、それがいやな人は「命令書」を読んで、「ふん、ふん」とその指示通りにしていればいいのです。

(「『書かれたこと』を読んで『書かれていないこと』を考える」220~221頁)

誰もが知っていることを文章化しただけかもしれない。
しかし、これを文章で見たことが衝撃だった。

2015年6月17日水曜日

読書の意義

久々に齋藤孝氏の本を読んだ。

以前は読んでいたが、出版業界のよくあるパターンで、
売れる作家の本は多く出版されるようになるので、
しばらく手にも取らなかった。

しかし、合気道を始めたきっかけのひとつは、
『身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
という著書だったこともあるし、
身体化がテーマの本が多いので共感できる。

今回手に取ったのは、『読書のチカラ』。

本を読む意味や読み方を書いているが、
彼の本に書いてあることは、誰にでも落とし込めて、
(少々努力すれば)習慣化でき、
それにより生き方が変わりそうなところが面白い。

「本を読む意義」は3つあるとして、
第一は、情報を得るための読書、
第二は、一人の時間を楽しく有意義に過ごすための、
頭の中でイマジネーションを膨らませる読書、
第三は、自分を鍛え、精神を豊かにするための読書、
であるとしている。

この「意義」の区分は大事だと思っている。
特に第一と第三がごっちゃになっているのは問題ではないか。

例えば、いい言葉を暗記すれば、良い人間になれるかと言えば、
そういう部分もあるだろうが、自分の経験からすると、そんなことはない。
心を鍛えないと、知識が増えるほど傲慢になる。

『伝習録』の中にこのような文章がある。

「もっぱら涵養につとめるものは、日毎にその足りないところに目がつき、知識をこととするものは、日毎にその増えたところが目につくものだ。だが、日毎に足りないと思うそのところにこそ日毎に増えるものがあるのであり、日毎に増えていると思うそのところに、日毎に足りないものが生じていっているのだ」(117条)

読み方の質を変える読み方をいくつか提案しているが、
「変換読み」というのが面白かった。
(自然にやっていることだろうが。)

この世の事象は、読書に限らず、
y=f(x)の関数式で読み解くと面白いというものだ。

yはアイデア、xは素材、
関数fがあれば、xに何かを入れると、
yが見えてくる。

世界中の先人は独自のfを持っているから、
それを考えながら読書をすること、
さらにはアウトプットすることで、
自分のfを見つけていくことを勧めている。

今の自分にとっては、陽明学やドラッカー的な視点だろうか。

2015年5月29日金曜日

土俵の真ん中で相撲をとる

今日で5月の営業日は終わり。
3月決算の会社が多いから、申告期限の5月は、
一般的に会計事務所は忙しいと言われる。

そんな中、今月末は来月が期限の相続税の申告の仕上げをした。

相続税は亡くなった日から10ヶ月で申告・納税する。
亡くなってすぐに依頼を頂くこということはほとんどないので、
おおよそ半年から8ヶ月ほどの期間で仕上げることになる。

聞き取りや資料の収集のために、
何度かお会いして、話を伺いながら進めていると、
半年くらいはすぐに過ぎてしまうものだ。

さらに、当然のことながら、集めた資料や情報から、財産の評価をし、
申告書を作っていくから、所内作業もなかなかのボリュームだ。

今回はおおよそ段取り通りに終了したが、
振り返るともう少し余裕を持ってやれたら良かった。

京セラ創業者の稲盛和夫氏には様々な名言があるが、
その中で私が好きなもののひとつは、
「土俵の真ん中で相撲をとる」というものだ。

解説を引用する。

 「土俵の真ん中で相撲をとる」とは、常に土俵の真ん中を土俵際だと思って、一歩も引けないという気持ちで仕事にあたるということです。
 納期というものを例にとると、お客様の納期に合わせて製品を完成させると考えるのではなく、納期の何日も前に完成日を設定し、これを土俵際と考えて、渾身の力をふり絞ってその期日を守ろうとすることです。そうすれば、万一予期しないトラブルが発生しても、まだ土俵際までには余裕があるため、十分な対応が可能となり、お客様に迷惑をおかけすることはありません。

『京セラフィロソフィー』154頁)

私も例外でないが、土俵際まで来て初めて火事場の馬鹿力を発揮したりする。
しかし、土俵際かどうかというのは所詮は主観だ。

どうして余裕があるときに全力でことに当たれないのか。
これは、期日のずっと前と直前を分けて考えているということだろう。

ここでも二元論の弊害を感じる。

2015年5月28日木曜日

『ビジネススクールでは教えてくれないドラッカー』

「TOPPOINT」という、「一読の価値ある新刊書」を紹介する雑誌を定期購読している。
毎月、10冊ほどの本が紹介されるが、自分では絶対手を取らないであろうジャンルも多く、
軽く読んでアンテナだけは立てておこうと思わされる。

今月、 『ビジネススクールでは教えてくれないドラッカー』という、
私に読んでくれと訴えているようなタイトルの本があった。
(内容的にも好きな話だった。)

短期的な利益・株主価値の最大化は社会にとって良くないという考えがコンセンサスになりつつあるが、いまだにMBA教育では、経済合理的マネジメントが有効とされる。
経営者がそのような方向だと、長期的利益でなく短期的利益、全体を無視した個別合理性を追求して失敗する。
そうならないために必要なのが、ドラッカーの哲学的で人間主義的マネジメントだ。

ドラッカーの処女作『「経済人」の終わり』では、
なぜナチス全体主義が台頭したのかがテーマだったが、
彼の根底にあるのは、「人間の自由と責任の原理」。

ドラッカーのこうした人間・社会重視の視点があるからこそ、
彼のマネジメントやマーケティング・イノベーションが魅力的に写る。

目次を見たら面白そうだし、読んでみようかな。

2015年5月27日水曜日

連携と私欲

来月5日、かねてから設立準備をしてきた、
「東日本中小企業再生協同組合」のお披露目会を開催する予定で、
メンバーを中心に準備を進めている。

この組合の特徴は、地域に密着して事業再生を行うことで、
地域のリソース(資源)を活かした問題解決を目指している。

この協同組合もそもそも、地域のリソースを活かした問題解決手法だ。

例えば、我々は税務会計分野の問題解決に強みを持っているが、
当然、それだけでは事業再生を完遂することはできない。
しかし、我々だけですべてはできなくても、他の人の強みを活かすことで、
お互いのリソースが活かされる。

これが中小企業の差別化に欠かせない「連携」だ。

陽明学を勉強して、自分がいかに自己中心にものを見、考えているかを体感した。
そして、それが分かって、周りを活かすことを学んだ。

私欲を挟まずに、ただ観れば、自分の内にあるものも外にあるものも、
お客様や地域などの問題を解決するためのリソースなのだ。

陽明学を学んだからこそ、ドラッカーの考えをより理解できた気がする。

2015年5月26日火曜日

すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる

日経新聞に池上彰氏の『池上彰の大岡山通信 若者たちへ』という連載がある。
昨日が連載第46回目で、タイトルが「アメリカにみる大学の将来」。

内容をまとめると、このような感じだ。

米国の大学といえば、リベラルアーツ教育に力を入れていることで知られるが、
最近は様相が変わってきたらしい。
学生に教養を与え、啓蒙するという伝統的な場から、
最新の資本主義の目標と需要を満たせるような人材の育成に力を入れるようになった。
日本でも同様の傾向がみられるが、「社会から求められる学部」ばかりつくっていたら、
社会からの要請がなくなった途端、存在の意味がなくなってしまうのではないか。

このような問題提起をした後、慶應義塾の元塾長、小泉信三氏の発言を取り上げる。

「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる」

先週、高崎市倫理法人会様で講話をさせて頂いたが、
その際にお話しさせて頂いたのは、以前も書いたことがある、
スティーブ・ジョブズの「点と点を結ぶ」という話だ。

繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。

自分のこれまでの活動の根っこには、大学時代に「たまたま」出会った教育がある。
すぐに役に立つ勉強だったかと問われれば、確実に「ノー」だが、
その情熱を傾けた寄り道のおかげで、
自分の人生を考える物差しをもらったように思っている。

遊びや隙間は大事だ。

すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる。
何かを学ぶ際に頭に置いておきたい言葉だ。

2015年5月25日月曜日

心が動いたから分かったこと

先週、面白くない仕打ちをされ、怒りが収まらないことがあった。

普段そんなに感情が乱れることがないのだが、
その日は寝るまで腹が立っていた。

陽明学では、感情は心に当然にあるべきもので否定しない。
ただ、感情が何物かに執着することを否定する。

 (七情は)みな人間の心に当然にあるべきものなのです。
 ただ、大事なことは、良知をはっきりと認識することです。良知はたとえてみれば、太陽の光のようなもので、その存在する場所を指摘することはできません。(中略)
 雲が太陽を覆って妨げるからといって、天に雲を生じさせないようにするわけにはいきません。それと同じように、七情も自然のままの活動にしたがっているなら、これまた良知の作用なのです。それを、善とか悪とか区別することはできないのです。
 しかし、七情が何物かに執着して、不自然な活動をするようなことがあったら、これをはじめて人欲というのです。そして、それが良知を覆い妨げることになるのです。しかし、七情が何物かに執着することがあれば、良知は自然にそれを覚ることができ、もし覚れば、その覆いはすぐになくなって、本来の姿を回復します。

(『伝習録』下巻、『真説「陽明学」入門』222頁より)

感情が揺れていない状態が分かるから、感情が揺れていると分かる。

逆に感情が揺れたから、感情が揺れていない状況を確認できた。
思いが生じないと「未発の中」はわからないらしい。

こうして心がどこかに執着する状態があって、
そうではない状態を感じることができるということもあるのだと体感した。

感情を否定しないとはこういうことだろうか。

後日談。落ち着いてわかったこと。
思い通りにいかなくて怒ったのは、自分の私欲だな(笑)。
大事なのは結果でなくプロセスなのに、結果を目的としていた。

2015年3月3日火曜日

二元論①

数年前、相続税の申告をご依頼いただき、
その後は確定申告の時にだけお会いする女性がいる。

その方の職場は二十三区外の東京にあり、
毎朝、車と電車を乗り継いで通勤している。

家事や子育てをしながらなので、
夜は12時前後に寝て、毎朝3時半に起きて通っているとのことだ。

ある一定の時間に職場に行くにはそうしないとならない。

自分の話。
毎週金曜日、倫理法人会のモーニングセミナーに通っているが、
6時からなので、5時に起きて準備して出かける。

木曜日の夜は社長塾をはじめ、何かしらあることが多いので、
朝5時に起きるのはきついこともある。
でも、起きないと間に合わないから起きる。

例えば、他の日も5時に起きることになっているとする。
でも、ピタリに起きないこともある。
土日に至っては、寝坊することも多かったりする。

この違いはなんだろう。

他人との約束は強制力があるが、
自分との約束には強制力がない。

つまり、分けて考えているということだ。

<つづく>

2015年2月3日火曜日

観る①

本の内容は自分の経験や知恵の質的な変化に対応して変化すると思う。

同じ本でも、数年前に読んだのと今読んだのでは異なる本に感じる、
というのは誰にでもあることだろう。

先日、『戦略は直観に従う』という本を読み直していたら、
以前読んだ時も面白かったのだが、よりクリアに立体的に見えた。

この本の中に、ナポレオンの自叙伝の言葉が出てくる。

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私は決して自分の思いどおりに動いたことはなく、常に状況に左右されてきた。

私は明確な考えなど少しも持っていなかった。というのは、頑として状況をコントロールしようとする代わりに、状況に従うことを選択したからである。

実際に、私は、自分で自分の行動を決定してはいない。というのは、自分の方針にあわせて状況を変えようとするほど、私は非常識ではなかったからだ。逆に、私は予測される未来の状況にあわせて、自分の方針を変換したのである。

(同書102~103頁)

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ナポレオンは勝機がある戦いのみに挑み、そうでない場合は逃げた方が多かったそうだ。

そんな彼が一度だけ、上記のような方針を見失って、
目標を定めて戦いに挑み、敗れて、以降、没落の道に向かうことになる。
モスクワへの行軍である。

<つづく>

2015年2月2日月曜日

「褒められること」について

たまたま異なる場所で、立て続けに「慎独」という言葉を聞いた。

この言葉は『大学』に出てくる。
『大学』は四書の中の1冊で、儒学の入門書だ。

その内容を一言でいえば、「修己治人」。
自らの心を正すことと人を治めることはイコールだということだ。

その中で、このように述べられている。(超訳@小澤)

凡人は一人で人目につかない所で悪事を働く。
人前では悪事を隠して善いところを見せようとする。
しかし、人はそれを見通すから、そんなことをしても役に立たない。
だから、「君子は必ずその独を慎むなり」。
(立派な人は人が見ていようがいまいが、自らを欺くことがない。)

以前、スラムダンクを読んだとき、印象的な登場人物がいた。
それは福田というキャラクターなのだが、
彼の台詞で記憶に残っているのが、
「もっとホメてくれ」というようなものだった。

私も時々、そういう気持ちが心の中に湧いてくるのは事実。
(そういう自己顕示欲に笑えることがある。)

しかし、褒められるからやるのではない。
やった結果として、たまたま褒められることもあるかもしれないが、
褒められることが目的ではない。

だいたい褒められたりすると、勘違いして、なすべきことをせずに、
褒められることが独り歩きして自己目的化したりする。

賞賛や褒め言葉は麻薬みたいなものかもしれない。

2015年1月31日土曜日

『花燃ゆ』③~「知行合一」と「言行一致」

「花燃ゆ」の第3話を見ました。

その中で、吉田寅次郎が妹の文に言う、このような台詞がありました。

「知行合一という言葉がある。知識だけじゃ意味がない。行いが伴ってこそ、その知識は意味がある。」
















(ネットからどなたかの絵を拝借しました。)

「知行合一」は陽明学の言葉の中で最も知られていますが、
「言行一致」と理解されているケースが多いように思います。

これはそもそも「知っている」ことと「行うこと」を二分しています。

いわば「先知後行」(認識は先、実践は後)。

これに対し、「思い」と「行動」はそもそも一体で分けられない、
というのが王陽明の考えです。

例えば、ゴミが落ちている。
あっ、ゴミだ、と思う。
その時にはすでに手が伸びている。

若しくは思わずとも手が伸びている。

そんな経験は誰にでもあるでしょう。

これに対し、

ゴミが落ちている。
拾うべきだけど、どうしよう。
恥ずかしいし。
そう思って拾う、または拾わない。

この2つの違いは、なんとなく分かって頂けるでしょうか。

日常の中で、例のように、
ゴミを認識して拾うまでの間の葛藤がなければ、
心は常にすっきりした状態だと思います。

しかし、ゴミを拾わなければならない、という知識が先行しまうと、
拾わない自分はダメだ、という思いと行動の分離が起こり、
その結果、自己否定につながることもあるでしょう。

私自身、「言行一致」が義務感になり、
こうした分離が自分を苦しめてきたという経験があります。

この葛藤がなくなれば、日々伸びやかに生活できる。
陽明学を学ばせて頂き、確実に体感してきたことです。

2015年1月29日木曜日

成果をあげる②

昨日のつづきです。

戦略マップを書くことよりも肝心なこと。

それは、当然のことながら、
行動計画まで落とし込み、実際に行動すること。

昨日書いた経営者の方も、
問題解決のための行動を書き出して、
今後、監査の際に話をしていくことにした。

行動しなければ、成果があがらない。

成果をあげると言えば、ドラッカーの言葉を思い出す。
ドラッカーは「成果をあげる能力は修得できる」と言う。

そして、成果をあげる8つの習慣について書いている。
(『経営者の条件』)

(1) なされるべきことを考える
(2) 組織のことを考える
(3) アクションプランをつくる
(4) 意思決定を行う
(5) コミュニケーションを行う
(6) 機会に焦点を合わせる
(7) 会議の生産性をあげる
(8) 「私は」でなく「われわれは」を考える

もうひとつおまけで、
聞け、話すな、を挙げている。

さらに、成果をあげるのは生まれつきの才能でなく、
習慣であるから、他の習慣と同様に身につけられるし、
身につけなければならないと書いている。

先日ブログに書いたように、自分自身、
やることがとっ散らかっているというのは、
まさになされるべきことに専念できていないということ。

なぜそうなるかと言ったら、
なされるべきことは考えなければならず、
したいことをする方が楽だから。
(人を見ているとよくわかるのだが、自分は見ようと思わないと見ない。)

限られた時間の中で成果をあげるには、
体だけでなく頭を動かして考える時間を日常に落とし込まないとならない。

先日のエントロピーの話にも書いたが、
今更ながら、成果をあげるのは習慣だと実感するようになった。

静かな日々を過ごすためにエネルギーを使うということか。

2015年1月28日水曜日

成果をあげる①

今日、ある経営者さんと話した。

その方と話していつも感じることは、素直だなということ。
自分の判断が常に正しいとは限らないということをわかっている。

日々、最前線の幹部の方からお客様の様子を聞いたりして、
商品・サービスづくりに活かしている。

創業3年目だが、独自の市場を作り出しているし、
「誰に」「何を」「どのように」もブレがなく、強みで集客できている。
同業他社は不調が多いだろうが、売上も順調だ。
(差別化できているから、「同業他社」とも言えないかもしれない。)

しかし、中長期的に見ると、社内のオペレーションに問題があるし、
その根源は社員の育成に問題がある。

そのことについて、戦略マップというツールを使って洗い出しをした。

戦略マップは、バランススコアカードという手法の一部に位置づけられるが、
経営を見える化するのに使いやすいので、よく使っている。

こんな感じ。↓













細かい表現は異なることもあるが、
おおよそ上から、
「財務の視点」
「顧客の視点」
「業務プロセスの視点」
「人材と変革の視点」
といった四つの枠からなる。

各要素を矢印で結ぶので、因果関係がわかりやすい。
昨日も面白い発見があった。

戦略マップは当然、自分でも書けるが、
誰かにファシリテーションしてもらう方とより良いと思う。
普段とは異なる視点で見られる。

しかし、肝心なのは書くことでない。

<つづく>

2015年1月27日火曜日

因果

昨日書いたように、
毎年1月は過去に消し忘れた種火が大きくなる気がしていて、
その年のテーマを必然的に気づかされる。

昨年の正月は『法華経を読む』という本の中の、
「絶対肯定」という言葉が妙に記憶に残ったことを覚えている。

で、一年間終わってみたら、市場や顧客は常に合理的だとか、
環境をすべて受け入れることの大事さを感じた年だった気がする。

さてさて、今年はどうなることやら。

アインシュタインの有名な言葉にこんなものがある。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen
(常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。)

自分が自分にする質問には癖があったりする。

だから、本を読んだり、音楽を聴いたり、人と会ったりするのだが、
これも気を付けないと、居心地がいい方向からの問いになる。

先日、マインドマップインストラクター時代の友人から誘われて、
彼のセミナーに参加させて頂いた。

その時に、BE-DO-HAVE、つまり、
どうありたいか、何をしたいか、何が欲しいか、
について考えるワークがあった。

これを見た時、実はすごく違和感があった。

周囲の人を見ると、やりたいこととか欲しいものが出ていたのだけど、
自分はどうありたいかはあっても、欲しいものはパッと思いつかなかった。

で、頭に浮かんだものは、健康とか次の仕事が頂けるような信用のような、
長期的かつ目には見えないものだったりして。

結果を求めるのではなく、良き原因づくりのみに邁進する。
ある方から教わって、普段気に留めていることだ。

時には他人に質問してもらうのも、自分の現時点を確認できて面白い。

2015年1月26日月曜日

最近考えていること~エントロピーについて

師走は考える間もなく過ぎていき、
睦月の半ばから立春にかけて、現在の問題を象徴するような事象が起こる、
というのが自分の今までのパターンだったりする。
(皆さんもそうなのだろうか。)

今日はこの数週間で感じたことを書いてみたい。

まずは、松岡正剛氏の「『松岡正剛の千夜千冊』1043夜」から引用。

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 宇宙の全体や物質の基本的な運動が、大局的にはエントロピーの増大に向かっているのは知られている。どんな物質も放っておけば無秩序な状態に向かい、周囲の環境と区別がつかなくなっていく。熱い紅茶を放っておけばやがて紅茶は器と同じ温度になり、器とともに室温と同じになっていく。熱力学ではこれを熱死と言っている。熱死とは無秩序の頂点のことをいう。宙も紅茶も目的はひとつで、ひたすらこの熱死に向かっているわけだ。

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別に今まで手を抜いて生きて来たつもりもないが、
(とは言っても、胸を張ってしっかり生きて来たとは口が裂けても言えないけど。)
振り返ると、明確に意識して来なかったように感じるものがある。

それは「エントロピー」との付き合い方だ。

エントロピーの増大は物理学の大原則で、
簡単に言うと秩序から混沌に向かっていくという法則。

これまで様々なことを考えて取り組んできたことが、
どんどんとっ散らかっている気がしてきたのだ。

「仕舞う」とか「片を付ける」とかせずに進んでいると言うべきか。

いい会社はエネルギーの方向が良く、過剰さがなくて静かだと思う。
そんな話をさせて頂くことがあるのだが、自分自身はそれができていないと反省。

以下、再び引用。

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 ところが地球上の生命が活動をしているときは、これとはまったく逆の現象がおこっているように見える。生命は生物体として熱力学の原理に抵抗するかのように秩序をつくり、これを維持させたり代謝させているのだから、無秩序すなわちエントロピーの増大を拒否しているようなのだ。

 生物もやがては死ぬのだから、大きくいえば熱死を迎えていることになる。しかし、そこにいたるまでが尋常ではない。生命は個体としての生物活動をしているあいだ、ずっとエントロピー(無秩序さの度合)を減らし、なんとか秩序を維持しようとしているようなのである。これをいいかえれば、生命は負のエントロピーを食べているということになる。

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新年最初のお話の中で「投企」という言葉について書いて、
もやっとしたものに言葉を与えられたように感じたが、
何に向かって投企すべきかまでは落とし込めてなかった。

秩序に向かって「企み」を「投げる」。

今まで、エントロピーのことを知ってはいたのに走り続けてしまった。
しかし、自分の時間が有限だということに自覚的になると、
エネルギーの使い方に意識的になるものなのかもしれない。

もう少し早く動けば、ここまでとっ散らからずに済んだのにと思う。
だが、なんとか手綱を自分の手に取り戻したい。

2015年1月23日金曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑦~できないからやっている

さて、このお話は今日で最終回にさせて頂きます。

今日、税理士会からの派遣で、
税務署での確定申告無料相談に従事しました。

その会場でこんなことがありました。

ある60代と思われる女性が相談に来たのですが、
減価償却の部分がきちんと記載されていませんでした。

ここでは減価償却の説明は割愛させて頂きますが、
なかなか理解しづらい部分ではあります。

その女性は亡くなった夫から引き継いだこともあり、
計算の詳細は全く分からないとのことでした。

最初は普通に説明していたのですが、
何度も同じことを質問されたり、
「だから、そうじゃないって」ということが繰り返されるうちに、
私の心は波打ってきました。

イライラして、口調が変わってきたのが自分でもわかりました。

ここで良知が働く訳です。

おいおい、分からないから質問しているのだし、
理解してもらえないのはお前の説明のせいで、
わかるまで丁寧に教えるのが仕事だよ、と。

そこから我に返って、なんとか来年以降の道筋を伝えました。

仕事をしていても、日常生活の中でも、
こうした機会は多数あると思います。

しかし、良知の声に耳を澄ますことを意識しないと、
いつの間にか良知は曇り、感情に振り回されてしまいます。

逆に、良知を発揮するほど、
兆しを感じることができるようになる気がします。

私自身、この通りできていませんが、良知の存在は感じていますし、
「あとがき」にも書かせて頂いた通り、
良知は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はないからこそ、
仲間と一緒に学ばせて頂いています。

最初に、陽明学を勉強して何の役に立つのか、
という話をした気がしますが、仕事に役立つといった「副産物」はあると思います。

でも、これは目的ではなく、「副産物」だということは肝心ではないでしょうか。

最後にこんなエピソードを書いて、終わりにします。

「心学に入ります前は、何事につけても、いちいち為に、為にと、『為』をつけて考えたものでした。仕事に精を出すのは妻子を養う為である、信用を得たい為であるといったように、いつもこの『為』という言葉に縛られ、追っかけ廻されて、窮屈なせわしない思いばかりをしていました。ところが、心学の道に入ってからは、この『為』という曲者に捉われないで工夫修行をするようになりました。ただなんとなく勤めるばかり励むばかりです」
『真説「陽明学」入門』124頁 )

つまり、仕事に役に立つからやるのは私欲ですから、良知を曇らせる訳です。
今後も、ただやるという姿勢で心を正す会にしたいと思っています。

2015年1月22日木曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑥~松下村塾と『伝習録』

吉田松陰亡き後、久坂玄瑞や高杉晋作らの門人たちが、
松下村塾に集まり、松陰の遺文を会読することとしたが、
それとは別に会講日を定めて研究したのが、
『孟子』と『伝習録』だと言われます。

今日は、この2冊の共通点ついて書いてみます。
良知と『孟子』について書いた王陽明の言葉を引用します。

----------

「良知とは、孟子が〈是非の心は人がみな持っているものだ〉というところの〈是非の心〉のことです。この是非の心は、考えなくても知ることができ、学ばなくても自然にできるものであり、だからこそ良知というのです。」

「善い思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知り、善くない思いが起こったとき、私たちの心の良知はこれを知ります。しかも、それは他人がそのことを知ることができません。私たちの心の中だけのことです。」

「今、善悪を区別して、思い(意)を誠にすることを望むのでしたら、ただこの良知の判断力を発揮するしかないのです。というのも、意念、つまり何らかの思いが生じたとして、私たちの心の良知が、すでにその思いが善であることを知ったにもかかわらず、その善い思いを心から好むことをしないで、誠の心にそむいて善い思いを放り出してしまうことがあるとすれば、これは善を悪とするものであって、自分から善を知った良知を曇らせることになるのです。」

(いずれも、『志士の流儀』209~210頁)

----------

他人の前では善いところを見せていても、
見ていないところでは善くないとわかっていることをすることもできます。
しかし、自分の心の中の是非の心はそれを知っています。

その良知の声を無視し続けると、良知が曇る、
つまりその声が聞こえなくなるということです。

若しくは、私欲から出ている声を良知の声と聞き違えます。

良知を発揮するのは苦労が伴うこともあります。
しかし、努力と工夫が必要だから、
必然的に心を鍛えることに繋がります。

心を鍛えれば、大変なことは確実に減るでしょう。
同じことをしても、楽に感じる人とそうでない人がいる訳ですから。

そして、気づいたら同時にやっている、
つまり、良知が自然と発揮されて行動になっている、
知行合一並進という状態になります。

こうした状態を目指して勉強会を続けています。

<つづく>

2015年1月21日水曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか⑤~良知

ここ数日書かせて頂いているお話は、
林田明大先生の『真説「陽明学」入門』のあとがきに
文章を書かせて頂いたことから始まりました。

今日は、再度、一部引用から入りたいと思います。
(全文はこちらから。)

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『林田先生に直接ご指導いただくようになり、二年半が経過した。…その間に体感できたことを一言で言えば、この一文が最適ではないだろうか。
 「良知を発揮するというこの一句には、全く欠陥がない」(溝口雄三訳『伝習録』下巻、六十二)

 林田先生から最初にご指導いただいたことは、心の動きを観ることだった。自分の中の「良知」の声、内なる声に耳を澄まし、その声なき声を発揮する、言い換えれば素直に従うことを習慣化するまで工夫と努力を続けるという、そのような「心学」の存在をこれまで知らなかったのだ。

良知」は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はない。これからも「良知」を最高の師として学び続けたい。

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「良知」、そして「致良知(良知を致す)」。

陽明学について、語る時には欠かせない言葉です。
良知について、以前書いた記事から引用します。
(全文はこちらから。)

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布団に入って、さあ寝るか、と思ったら、

「あ、そういえば、明日の午前中、会社で会議があるけど、書類を用意していないな。
カバンに入れておけば安心なんだけど。」

と突然思いつく。

そうすると、次に、
「眠いから寝ちゃえ。明日の朝やればいいや」
という声と、
「今やらないで、明日忘れたらどうするんだ」
という声がして、板挟みになって葛藤が始まる。

このような天使と悪魔が頭の周りをグルグル回るような経験は誰にでもあるだろう。

さらに言えば、すぐにやって良かったということもあれば、
明日の朝やろうと思って忘れて大変なことになったということもあるだろう。
(当然、私もある。つい先日もあった。)

こうしたことは、思いつこうと思って思いついたのではなく、
体の内部から突如として湧き上がってくる。

陽明学では、この声の主を「良知」という。

----------

 「人の胸中には、それぞれ聖人が宿っています。しかし、ただ自分を信じきれないばかりに、みな自分でそれを葬ってしまっているのです。」(中略)
 「これまでの儒教の教えでは、聖人は人々の外部に存在していた。それも到底近づけそうもないはるか高みに存在していた。ところが陽明学では、聖人がすべての人々の内部に存在しているというのである。」(中略)
 「陽明学の思想の最大の魅力は、心にある崇高な価値の宿り、聖人の宿りを認めるところにあった。」
(『真説「陽明学」入門』109~110頁)

自分の中の聖人を発揮しようと努力と工夫を重ねることで、
迷いがなくなって来たことを感じるし、
もしそうでない時は、その聖人が教えてくれるようになって来た気がします。

<つづく>

2015年1月20日火曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか④~『伝習録』を読む

本日は「陽明学研究会 姚江の会・群馬」の月一回の勉強会でした。

今日は、勉強会で何をやっているのかについてお話しさせてください。

毎月、第3火曜日の16時から18時半まで、
高崎神社社務所をお借りして開催しております。

まずは林田明大先生から、30分ほど、
書籍のご紹介やそれに関するお話を頂きます。

続いて、各人の準備して来た感想文の発表になります。
ひとりの持ち時間は3分で、
読後感・感動、共感した点・分からなかった点・意見を述べます。

現在は、陽明学のバイブルと言われる『伝習録』の完読を目指しております。


『伝習録』を読み始めて、今回で20回目でした。
「下巻」から読み始め、現在は「上巻」を読んでおります。

1回に進むページは、だいたい10ページ前後。

「ひと月でそれしか進まないの?」と思われるかもしれません。

しかし、ページ数は少ないですが、考えながら読むため、
じっくり時間をかけねばなりません。
繰り返し読まなければ、感想を書けないということもあります。
(なかなかの強敵です。笑)

感想文を発表し合った後は、グループディスカッションで、
各自の疑問点や感想について考え、話し合います。

それをまとめてグループ発表し、最後に先生にご解説いただく、
というのが一連の流れです。

参考までに、今回書いた感想文の一部です。

----------

 「人は、自己の心の本体を十全に発揮しさえすれば、すべてのはたらきはそのまま十全になる。…もしこの心というものが無視されてしまったら、たとえ世間の無数の文物・制度があらかじめ学びとられていたとしても、それらは自己と何のかかわりももたず、要するに装飾にすぎないのだから、いざという時に自分がどうしたらいいかは何もわからない。とはいえ、文物・制度を全く修めなくてもよいというのではない。ただことの先後がわかりさえすれば、道により近づけるということだ。」(85頁)

 「ひたすらこの心を保持して常に現在させること。それが学というものだ。過去・未来のことを思案して何のプラスがあるか。ただ心が放散するだけだ」(94頁)

私自身、頭でっかちで、いらない知識を求めながら血肉になっていなかった時期があっただけに、この文章には非常に共感できた。当時は「足」よりも「不足」に目が行っていたように感じる。今でも焦りや不安を感じることがあるが、これは目の前のことに集中せずに先を見る私欲から来るのだろう。

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同じ文章を読んでも、当然のことながら、まったく違う感想が出て来ます。
それを聞かせて頂くことも気づきが多く、学びが多くなります。

独学していた頃は一読して分かった気になっていました。
しかし、それは分かったということではなかったのだと実感しています。

以前、誰かが、
「行動が変わらなければ、読書は無意味だ」
というようなことを言っていたのを思い出しました。

これの意味が今は分かる気がします。

行動を変えなければならないというよりも、
心が変われば行動は自然と変わるということではないでしょうか。

繰り返し読み、繰り返し考え、繰り返し語り合うという作業は、
一見非効率そうですが、実は最も効果的なのではないかと、
この3年ほどを振り返って感じています。

<つづく>

2015年1月19日月曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか③~自分の心の癖

さて、昨日の続きです。

若干、迷いましたが、恥を忍んで2008年5月5日の記事を旧ブログを転載し、
これをネタにここ数年で学んだことを書いてみます。

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陽明学研究家 林田明大先生の新刊。
これまでの先生の本と比較して、かなり読みやすくなっています。

読みやすくなっているとは言え、内容は濃く、
実例が多いせいか、今の自分には、ハラに落ちることが多かったです。

これを読んだ後、先生の『真説陽明学入門』を再読したら、
理解がより深まった気がしました。

陽明学について、私はまだまだ多くは語れません。
というのも、林田先生の本を読むたびに、
自分に行動が伴っていないことを痛感するから。

つまり、「語ること」と「すること」にギャップがあるな、と。

それでも、自分で様々なことを体感しながら、
「これがもしかしたら知行合一ってやつなのか?」
などと試行錯誤して、その境地に達したいと努めています。

でも、とにかくまだまだです。
(わかっちゃいるけど…、というやつですね。)

うちのスタッフにもこの本を読んでもらいたいので、
配りたいのですが、そんな訳で配ってません。

胸を張って配れるようになろう!と、
ここにこっそり宣言しておきましょう。

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以上、突っ込みどころ満載ですが、あえて何点かに絞って、
7年前の自分に返信を書いてみます。

> 今の自分には、ハラに落ちることが多かったです。
> 理解がより深まった気がしました

3年ほど前から、陽明学研究会 姚江の会で学ばせて頂いていますが、
最初に先生から出た宿題は、自分の心の動きを見ることでした。

例えば、電車の中で隣に人が座った時にどのように心が動くか。
おじさんが座った時とお姉さんが座った時はどう違うか。
車を運転している時に、横から無理な割り込みをされたらどう心が動くか。
分かっていることを人に指摘された時、どんな感情が湧くか。

日常の中で心の動きを見ることがいかに少ないか、
そして、いかに自己中心的な思考をしているかに愕然としました。

これが習慣化してきた今、
「ハラに落ちる」とか「理解が深まった」と書いたことは、
所詮、言葉として理解したつもりになっていたと思います。

> 陽明学について、私はまだまだ多くは語れません。
> というのも、林田先生の本を読むたびに、
> 自分に行動が伴っていないことを痛感するから。

これは違う気がします。
語れないのは、カッコ悪い自分を見せたくない、
そして、自分を良く見せたいという「私欲」があるからではないでしょうか。

これは合気道の審査でも痛感しました。

> つまり、「語ること」と「すること」にギャップがあるな、と。

江戸しぐさの「しぐさ」は「思草」と書くそうです。
つまり「思い」が「行動」として現われるということ。
陽明学の「知行合一」と同義です。

そして、これは無意識でも現われています。

つまり、思っていることはギャップなく行動になっているけど、
それが癖になっているから気づいていないだけかもしれません。

> それでも、自分で様々なことを体感しながら、
> 「これがもしかしたら知行合一ってやつなのか?」
> などと試行錯誤して、その境地に達したいと努めています。
> でも、とにかくまだまだです。
> (わかっちゃいるけど…、というやつですね。)

では、最初に書いたように心の動きを見ること、
そして、自分の中の声なき声を忠実に発揮することから始めてはどうでしょう。

これを「致良知」と言います。これについては後日書きます。

> うちのスタッフにもこの本を読んでもらいたいので、
> 配りたいのですが、そんな訳で配ってません。

「そんな訳」だからこそ配ってはいかがでしょうか。
できていないけど努力と工夫を続けることが大事ではないでしょうか。

以上、過去の自分との対話ですが、
自分の思考の癖が今だから見えることがありますね。

当時のブログを読んでみて、にじみ出ているのは、
自分を大きく見せようという癖のような気がします。

こうした心の癖を見るのはきついから見ないこともできます。
しかし、これを見ることで気づくことが多いのは事実。
陽明学の勉強会を継続している理由の一つは、確実にこれです。

さて、この記事に対して、林田先生がくださったコメントは以下の通りでした。

----------

分かったら、実践できたら、体得したら、などと考えることに何の意味もありません。あれこれ作為(無駄な思考)を巡らせるのではなく、「これ、面白かった、参考になった、よかったら、読んでみてください」と自然に言えれば、その時あなたは変わります。

まず、自分から変わろうとしなければ、始まりません。まず、変わろうと試みること、考えていても駄目なんです。もっと、気楽に、楽しんで生きてみてください。慎重過ぎますね(笑)。

----------

…まさにその通りですね(笑)。

<つづく>

2015年1月16日金曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか②~陽明学との出会い

昨日の記事の続きです。

なぜ陽明学の勉強会をやっているのかという話の前に、
林田明大先生の出会いから姚江の会・群馬に至るまでを書いてみたいと思います。
(また長くなりそうですが、お付き合いください。)

2002年(平成14年)4月、31歳から32歳になる年に独立開業しましたが、
振り返ってみると、公私ともに何事も初めての連続でした。

そして、何をやるにしても、自分と向き合わなければならず、
自分がそれまで避けて来たことが原因で問題が噴出しました。

そこから逃げても同じことが起こり続けると思い、
正面から受け止めて自分を変えようとしましたが、
過去と同じやり方では乗り越えられず、
新たな自分の使い方を求めました。

その中で出会い、私の心を惹きつけたのが、
様々な本であり、合気道であり、マインドマップなどの学習法であり、
東洋思想でした。

東洋思想に興味を持つきっかけをくれたのは、
TKC全国会創始者の飯塚毅先生でしたが、その話はまたいつか。

東洋思想を学ぶ中で、陽明学を知り、
偶然、林田先生のご著書に出会いました。

最初に読んだのは『真説「陽明学」入門』だったと思います。
当時、理由は分かりませんでしたが、他の本とは異なる魅力を感じたことを覚えています。

第2部の「陽明学の思想」、
「心即理」、「致良知」、「知行合一」、
「陽明学と感情」、「陽明学とゲーテの思想」などの部分を、
うーんと唸りながら繰り返し読みました。

そして、2008年(平成20年)4月、林田先生の
『イヤな仕事もニッコリやれる陽明学 眠っている能力を引き出す極意』
が発刊されました。


この本について5月5日付の旧ブログに書いたところ、
2日後、ある方からのコメントが入ったのです。

> ■御挨拶と御礼
> ありがとうございます。著者の林田です。

驚きました。

<つづく>

【追伸】
久々に自分の過去のブログを読んでみました。
あまりの軽さにクラクラしました…。
ここに書いていることも、後で読み返したらクラクラするのでしょうか(笑)。

2015年1月15日木曜日

なぜ陽明学の勉強会をやっているのか①~『真説「陽明学」入門』あとがき

昨日まで、藤屋伸二先生のご著書に当事務所の話を取り上げて頂いたことから、
昨年の振り返りとこれから取り組みたいことについて書かせて頂きました。

引き続き、昨年の振り返りをさせて頂きます。

本に載せて頂いたと言えば、
昨年末はもうひとつ嬉しいことがありました。

「陽明学研究会 姚江の会・群馬」でご指導いただいている
陽明学研究家 林田明大先生のご著書のあとがきに、
原稿用紙2枚ほどの文章を書かせて頂いたのです。

その本は、『真説「陽明学」入門』(増補改訂版)


林田先生の記念すべきデビュー作であり、
先生が命がけで書いたのは後にも先にもこの1冊であり、
さらに、私を陽明学に導いてくれました1冊でもあります。

今回の重版が第六刷というロングセラーですが、
近年の動きを反映させるため「あとがき」を書き直すことになったとのこと。

近年の動きのひとつは、本書の英語版が出ること。
もともとグロービス経営大学院で必読書となっていましたが、
この度、グロービスで英訳され、電子版として発刊されることになりました。

英語版の序文を堀義人学長が書いていて、「あとがき」に掲載されました。

もうひとつの動きが、「陽明学研究会 姚江の会」です。
今回、姚江の会を代表させて頂き、
姚江の会・群馬の3年間で学ばせて頂いたことを書かせて頂きました。

以下、先生のご許可を頂き、「あとがき」の一部を転載させて頂きます。

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増補改訂版あとがき(六刷)

 月に一度のペースで開催される「陽明学研究会 姚江の会・群馬」が高崎市でスタートして三年目を迎えた。高崎市で税理士事務所を開いておられる小澤昌人氏と平成二〇年五月にご縁をいただき、平成二四年四月二〇日に開催された「小澤昌人税理士事務所一〇周年」の私の記念講演がきっかけで、同年六月から陽明学の勉強会をスタートした。
 第一回目からは、拙著『真説「陽明学」入門』を手始めとする一連の私の著書をテキストに陽明学理解を深めていただき、現在は、「陽明学のバイブル」と称される『伝習録』の輪読を行なっている。
 平成二六年には、読者からの要望もあり「陽明学研究会 姚江の会・東京」もスタートした。
 会のことについて私があれこれ述べるよりも、「陽明学研究会 姚江の会」を代表して「姚江の会・群馬」の主宰者の小澤昌人氏に語っていただこう。

 『林田先生に直接ご指導いただくようになり、二年半が経過した。先生のご著書を拝読して感想文を書くことから始まり、現在は『伝習録』の完読を目指している。その間に体感できたことを一言で言えば、この一文が最適ではないだろうか。
 「良知を発揮するというこの一句には、全く欠陥がない」(溝口雄三訳『伝習録』下巻、六十二)
 私はもともと陽明学の熱心な読者ではなかった。自己啓発本の中の一冊が林田先生のご著書だったというだけだ。ところがご縁あって、先生と知り合うことができ、高崎でご講演いただき、その流れで陽明学の勉強会である「姚江の会・群馬」を主宰させていただいている。
 自分一人で先生のご著書と向き合っていた時、陽明学のキーワードである「致良知」「知行合一」「心即理」などを理解した気になっていたが、それは言葉として頭で分かっただけで、体得したわけではなかったと、繰り返し学ばせていただく中で感じている。
 これまでの人生において、学問とは知識をインプットするものだと思い込んでいたが、これとは別に「心学」と呼ばれる心を鍛える学問があったのである。
 林田先生から最初にご指導いただいたことは、心の動きを観ることだった。自分の中の「良知」の声、内なる声に耳を澄まし、その声なき声を発揮する、言い換えれば素直に従うことを習慣化するまで工夫と努力を続けるという、そのような「心学」の存在をこれまで知らなかったのだ。
 学び始めた頃よりも、日常の中で「知行合一とはこういうことだろうか」とふと感じることが増えた。勉強会では、疑問を持ち合って仲間と語る。かっこつけずに自分をさらけ出す。さらに先生にご意見をいただく。会を始めるまでは自分一人で勉強していたからこそ、このような方法が効果的だということを実感している。この場を借りて、先生と仲間に感謝を申し上げたい。
 「良知」は磨けば磨くほど光るもので、そこに完成はない。これからも「良知」を最高の師として学び続けたい。』(平成二六年一二月一一日 小澤昌人)

 
 小澤氏の一文にあるように、陽明学の教えを実践体得するには、陽明学でいう「良知」を自覚することから始めなければならないのだ。私はそのことを、主に日本陽明学から学んできた。

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なぜ陽明学の勉強会をやっているのかという質問を頂くことがあるので、
これまでやってきたことを振り返りながら書いてみたいと思います。

<つづく>

2015年1月14日水曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!⑥

「まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!」というのは、
黒字化の三段活用といったようなものです。

つまり、企業の成長ステージと経営者の姿勢に応じて、
我々がご提供するサービスを変えていきます。

これも藤屋伸二先生が解説するドラッカー理論を参考にさせて頂きました。
(ピンチ=チャンスということで。)

①【改善的なチャンス】
業績不振の企業は改善がチャンスに。基本プレーの構築と徹底。

②【付加価値的なチャンス】
業績が良くなってきたら、基本プレーの再確認と同時に、
強みを活かして専門化・多様化します。

③【革新的なチャンス】
変化が大きな環境では今までのやり方が早晩通用しなくなります。
自社を中期的に革新します。

この3段階を我々のサービスに置き換えます。

①【まず黒字!】
赤字企業や資金繰りを改善しなければならない企業は、
これまで勘で経営しているケースも多いため、
まずは月次決算→モニタリングという基本プレーを徹底するだけでも改善できます。

②【もっと黒字!】
これが出来るようになったら、次は短期経営計画を策定します。
未来から現在を考えると必然的にやることが見えてきます。

③【ずっと黒字!】
さらに中期経営計画で3~5年後を具体的に描いて、
短期計画に落とし込んでいきます。

事務所のホームページに、もう少し具体的に書いてあります。
宜しければご覧ください。
http://ozawamasato.tkcnf.com/pc/free6.html

これまでこの流れが整理できていなかったために、
お客様やスタッフとうまく共有できず、
その結果、ミスマッチを起こした気がします。

今年は、まず、三年後、五年後、十年後にどうありたいかについて、
お客様に聞かせて頂き、我々がお手伝いできることをお話しさせて頂きたいと考えています。

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昨年末に藤屋伸二先生の新著『ドラッカーの黒字戦略』が発刊されました。
「創客塾」で学んでいる中小零細企業の事例も多く載っているので、
自社の経営に応用できる点が多いと思います。


このコンセプトに到るまでを「創客塾」で発表してきましたが、
それをまとめて、数ページに渡って取り上げて頂きました。

「ストーリーとしての『さらに黒字』」という部分(193頁~)です。

昨年の振り返りが長くなりましたが、
一年間の成果をこうした形でまとめて頂けて、
本当にありがたく思っております。

藤屋先生、また、一緒に勉強させて頂いた塾生の皆様、
ありがとうございました。

2015年1月13日火曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!⑤

前回からの続きです。

お客様がどのように自社の強みを評価してくださったかを知ると同時に、
別の問題が出てきました。

しかも、なかなかの数でした。
すべてを書くことは企業秘密として控えさせて頂きます(笑)。

その中でも、最も根幹的な問題は、
望んでいないお客様に必要以上のサービスをしようとし、
必要としているお客様に必要なサービスができず、
さらにお客様の潜在的なニーズに応え切れていないのではないか、
と、こう書くと致命的な疑問でした。

こうしたことを恥を忍んで書かせて頂くことにしたのは、
おそらく我々だけではないと考えるからです。

お客様の声を聴かせて頂くのは、正直言うと、最初は抵抗がありました。
自分が良かれと思うことを否定されるのが怖かったのだと思います。
しかし、自分のことを客観的に見るのは、やはり難しいし、
客観的な意見を聞かないと、自分の強みも弱みもわかりません。

経営は環境適応だと言われます。
昨年、孫子関連の本が売れたようですが、有名な一文、
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」というやつです。

こうして考えていくと、自社のサービスもお客様と一緒に作り上げていくものだし、
ビジネス=問題解決だというのも腑に落ちてきました。

さて、いかにお客様と向き合いきれていないか反省すると同時に、
スタッフとも向き合っていないのではないかと別の疑問に発展するのですが、
この話はまたの機会に。
(家庭でも同じことが起こってますね。笑)

そこから、ああでもない、こうでもないと考えて、結果としてまとまったのが、
「まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!」というコンセプトでした。

<つづく>

2015年1月12日月曜日

『花燃ゆ』②第1話より「なぜ学ぶのか」

今日は休日なので、ちょっと話題を変えます。

先日、「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」(群馬県庁昭和庁舎内)のオープニングイベントに、楫取素彦役の大沢たかおさんと彼の最初の妻で松陰の妹、寿役の優香さんが来たようですね。

僕もようやく一週間遅れで見ました。
『花燃ゆ』第一話。タイトルは「人むすぶ妹」。
(文の子役が、井上真央さんに似ていましたね。笑)



描かれたのは、吉田寅次郎(後の吉田松陰)と小田村伊之助(後の楫取素彦)と彼らの家族の紹介と2人の出会いまで。

寅次郎と伊之助を結び付けたのが寅次郎の妹、
文ということで、「人むすぶ妹」。

現在、陽明学を学ばせて頂いているということもあり、
このドラマの中で、彼らが学んだ学問がどのように描かれるかが
個人的な興味でもありましたが、
初回から、二人の「なぜ学ぶか」についての考え方が炸裂しました。

伊之助が河原に置き忘れ、文の弟が拾ってきた禁書を、
文が明倫館にいるであろう伊之助に届けようとして見つかり、
寅次郎の叔父、玉木文之進がその持ち主を学生に問うシーン。

実は長崎でそれと同じ禁書を手に入れていた寅次郎。
懐に隠していたその本を出して言います。

(以下、台詞の部分はネットから引用です。間違っていたらすみません。)

たとえ、よこしまな本を読んだとしても己の頭で考えれば何が佳く何が悪いか
人は分かるはずです!
己の頭で考える事ができる者はかぶれも染まりもしません。

ただ覚えるだけではなく考える事!
それを教えてくれたんは叔父上です!

それにその本はよこしまな本などではありません。

なぜ皆が禁じられた本を読もうとするんか。
知りたいからです。学びたいからです。
変えたいからです。

今までの学問じゃもう日本国は守れん!本当にこん国の事を思う者は知っとる。
死に物狂いで学ばんにゃ、こん国は守れんと!

皆に問いたい。人はなぜ学ぶのか?

私はこう考えます。
学ぶのは知識を得るためでも職を得るためでも出世のためでもない。
人にものを教えるためでも人から尊敬されるためでもない。
己のためじゃ。
己を磨くために人は学ぶんじゃ。


それに続き、伊之助が前に出て言いました。
この時点で二人には面識はありません。

この本は島国である日本国が何をなすべきか教えてくれています。
禁書だからという理由だけで中身も読まず、葬ろうというのは学ぶべき者の
正しい姿ではありません。

人はなぜ学ぶのか。
お役に就くためでも与えられた役割を果たすためでもない。
かりそめの安泰に満足し身の程をわきまえこの無知で世間知らずで何の役にも
立たぬ己のまま生きるなどごめんです!

なぜ学ぶのか?
この世の中のために己がすべき事を知るために学ぶのです!

私は、この長州を…日本国を守りたい。
己を磨き、この国の役に立ちたい。
そのために学びたい。
まだまだ学びたい!


その後、藩主からの許可を得て、2人は江戸に旅立ちます。

「なぜ学ぶのか?」というのは、
「どのように生きるのか?」とつながっていますね。

学びには、知識を身に付けるものと心を鍛え「己を磨く」ものがありますが、
前者のみが学問とみなされ、心学と言うべき後者はなかなか触れる機会がありません。
実利的、効率的な価値が偏重されてきたからでしょう。

特に後者がいかに描かれるかを見ていきたいと思います。

早速、一話から松陰の好きな言葉として、
「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」
(至誠而不動者未之有也)
が出てきましたが、松陰が「己を磨く」ために用いたのが、
この出典である『孟子』です。

余談ですが、松陰亡き後、松下村塾は弟子たちによって継続されるが、
そこで研究されたのは『孟子』であり、『伝習録』(王陽明の語録)だったとのこと。

松下村塾での講義や会話もどのように描かれるか楽しみですが、
一話では「豊臣秀吉とナポレオンはどっちが強いか」みたいな会話だったし、
今後に期待しましょう(笑)。

2015年1月9日金曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!④

「あなたは何屋ですか?」と聞かれたら、何と答えますか。

「そりゃ花屋だよ。」
「魚屋でしょ。」

それはその通りです。
売っている商品を見ればわかりますよね。

しかし、昨日も書いたように、
お客様は商品を買っているのではなく、
お金を払ってでも解決したい問題や欲求を解決する手段を買っています。

では、花屋さんや魚屋さんは、
お客様のどんな問題や欲求を解決しているのでしょう。
意外と考えたことが無いことに気づきませんか。

これには絶対的な正解はありません。

花屋は「人間関係円滑業」とか「記念日盛り上げ業」とか。
魚屋は「健康増進業」とか「家族思い業」とか。

御社はいかがでしょう。

これは、お客様のどのような問題・欲求を解消しているのかによって変わりますし、
さらにそのように定義すると、商品も花や魚だけではなくなる可能性が広がります。
(ご興味がある方は物理的ドメイン、機能的ドメインなどと検索してみてください。)

昨日は第2木曜日ということで、当事務所で主催している
「たかさき戦略社長塾」でした。

普段はランチェスター戦略を中心としたインプットの勉強会ですが、
3ケ月に一度、経営計画発表会と題し、
自社が目指す方向と3ケ月の実行予定を発表し、
それについて参加者同士でディスカッションしています。

これが結構面白い。

昨日は、全く別の業種のメンバーで集まりましたが、
誰もがお客様や地域の問題解決業だという話になりました。
(私なら、税務や会計の知識を用いて問題解決するということです。)

そして、自社で解決し切れない問題は「連携」して解決する。
(連携については、またいつか書きます。)

「私は〇〇屋です。」という思考のメンバーがいないのは、
この勉強会で繰り返し学んできた成果だと、嬉しく思っています。

さて、では、うちの事務所はお客様のどんな「困った」「もっと○○したい」を、
どんな「強み」で解決してきたのでしょう。

もちろんどのお客様も同じ回答ではありませんが、
我々がこのようなお客様との関係が理想だと考える方々の意見を集約すると、
決算・申告ができないから依頼しているのではなく、
「(永続する)会社づくりのパートナー」と評価してくださいました。

自社では気づかない視点でアドバイスがあり、
時には厳しい意見も言ってくれる。

そういった点を評価して頂いていたは嬉しいことでした。

しかし、一つの霧が晴れると同時に、別の疑問が出て来たのです。

<つづく>

2015年1月8日木曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!③

昨日は、見たくない現実を見て頂くのが
会計事務所の存在意義だと思うという話をしました。

ところで、御社の強みは何でしょうか?

「うちは何の強みも無いよ。」という方もいらっしゃると思いますが、
では、なぜお客様は御社から商品やサービスを購入するのでしょう。

それは強みがあるからではないでしょうか。

購入の決定権は100%お客様が持っていて、
しかも競合他社・商品がゼロではない状況で買ってもらえるということは、
それらと比べて、何らかの差別化ができているということではないでしょうか。

お客様は商品を買っているのではなく、
お金を払ってでも解決したい問題や欲求を解決する手段を買っています。

では、うちの事務所は、
「誰の」、どんな「困った」や「もっと○○したい」を解決しているのだろう。
さらに、そのような機会に対し、どのような強みがあるのだろう。

藤屋先生から頂いたアドバイスは、
顧客に買ってくれている理由を聞くこと、
過去の成功と失敗を分析することでした。

実際にやってみました。

目からウロコでした。

そして、気付いたのは、
お客様が買いたい物でなく、
自分が売りたい物を売っていたのではないか、
ということです。

<つづく>

2015年1月7日水曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!②

昨日の続きです。

見たくない現実は見よう見ようと思いながらも、
また見ているつもりになっていても、
実は結構見るのが大変です。

なぜなら見なくても済んでしまうから。
回避は人の本能みたいなものです。

自分一人だと回避すると分かっているから、
僕のような自分に甘い人間は他人の力を借りるしかありません。

特に、普段、「先生」とか言われてしまうと、分かった気になるんです(笑)。
お恥ずかしいけど、それが現実。言葉は本当に怖い。

さらに言えば、現状維持バイアス。
こいつも強敵です。

大きな状況変化が起こらない限り、変化を拒み、
現状維持を志向する心の習性みたいなものです。

今は何とかなっていても、この先はどうなるか分からない。
でも、変化は大変だから現状維持したがるのも心の弱さ。

これも他人の力を借りるほうが良い。

だから、塾に通っています。

さてさて、なぜにこのような話を書いたのでしょうか。
実は、会計事務所の存在意義はここにあると考えているからです。

<つづく>

(追伸)
たかさき戦略社長塾でもよく話すのは、
できていることでなくできていないことに着目して欲しいということ。
知らず知らずに楽な方に視線は行きがちなので。
そういう機会として、社長塾も使って欲しいと思っています。

2015年1月6日火曜日

まず黒字!もっと黒字!ずっと黒字!①

引き続き、昨年の振り返りを。

一年間様々なことを考えてきましたが、
事務所のコンセプト作りについては悩みました。

我々の地域における存在意義です。
やるからには無くても変わらない、ではなく、
無くては困るという仕事をしたいですよね。

「差別化」という言葉があります。

この言葉もだいぶ一般的になりましたが、
使用する時に注意しなければならないことがあると思います。

それは、
☆ 強みに基づいた顧客から見た他社と違う魅力を持ち、
☆ それによって選ばれ、
☆ 利益に繋げる
ということではないでしょうか。

ただ単に人と違うことをしたとしても、
それによって顧客や市場を魅了できず、
それによって選ばれず、結果として利益も出なければ、
ただの自己満足であって、差別化とは違いますよね。

こうした悶々とした状態を作ってくれたのが、
2年間通っている藤屋伸二先生の「創客塾」です。

運動しないと筋肉が衰えるように、
経営の筋力のようなものも鍛え続けないと衰えると考えています。

そうしたエクササイズの習慣化をお手伝いする場を地元に作りたいと思い、
5年ほど続けさせて頂いているのが「たかさき戦略社長塾」ですが、
私自身が一経営者として修行させて頂く場として通っているのが創客塾です。

通っている中で痛感したことの一つは、
「差別化」を意図して「差別化」できていないということでした。

自分ではできていると思っていただけにショックでもありますが、
見たくない現実を見るために通っているので良いのです。

運と実力で言えば、運の要素が大きかったと思います。
昨日のブログで言えば、「投企」していませんでした。

<つづく>

2015年1月5日月曜日

「企み」を「投げる」~新年のご挨拶

新年、明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

本日から仕事を開始しました。
年末年始で何が変わるわけでもありませんが、「節」は大事ですね。
なんとなく新たな気分でスタートできました。

正月休みは本当にのんびりさせて頂きました。
そうすると普段とは違った物の見方をすることができた気がします。

年末に先輩経営者と話していた時に、簡単に言えば、
分かっていてやってないのは怠惰ではないか、というような話が出ました。

その方はそんなに重く言った訳ではありませんでしたが、
自分にはドスンと響きました。

そして、ふと気づきました。
現実に対して受動的だったかもしれないと。

年末年始に、昨年というよりも、昨年までを振り返って思ったことは、
妥協せずにすべきことをしてきたかということでした。

そんな中で読んだ、昨年末に発売された岡本吏郎さんの新刊、
『中小企業経営者のための本気で使える経営計画の立て方・見直し方』
の中に、ハイデガーの「投企」という概念が載っていました。



そこからの抜粋。

「人は、無理やり世界に投げ込まれた存在かもしれませんが、同時に、新しい可能性を投げ込むことができます。…ただ投げつけられるのではなく、そのぶん、思いっ切り投げ返してやる。そこが人生の面白さだと思います。」 (23頁)

「私たちの将来に対する態度は、『投企』からはほど遠く、問題が発生しないようにひたすら期待しているだけです。そして、そういう期待ですから、後で代償を支払わざるを得ない時が来ることになっています。代償の原因は、遠い過去から、ゆっくりと時間をかけて積み重ねられたものです。ですから、その結果に気づいた時に、”性急”に何かをしようと思っても万事休すです。」(24頁)

「問題が発生しないようにひたすら期待し、同じことを続けていても空気は抜けていきます。ですから、『投企』が必要です。行動を企て、それを投げつけてやるのです。企てがすべて成功するとは限りません。むしろ、失敗は多いでしょう。…それでも、我々は運命(=”構造”)に向かって、企てを投げつけてやらなくてはいけません。」(26頁)

現実からの挑戦を受け止めていただけで、何かを投げ返していたか。
若しくは、投げ返していたとしても、一貫性があったか。

受け身でなく、能動的に「企み」を「投げる」。
昨年からもやっとしていた気分に、ようやく名前を付けられたようです。