2014年12月17日水曜日

「知っている」ということ②

「洞察力」や「直観力」という言葉を知ることと、
「洞察力」や「直観力」を身に付けるのは異なる、
という昨日の話の続き。

さて、それらを鍛えるには、どうしたら良いのかというところから。

少々話が変わるが、このような体験はないだろうか。
(以下、『イヤな仕事もニッコリやれる陽明学』130ページ以降を参考。)



布団に入って、さあ寝るか、と思ったら、

「あ、そういえば、明日の午前中、会社で会議があるけど、書類を用意していないな。
カバンに入れておけば安心なんだけど。」

と突然思いつく。

そうすると、次に、
「眠いから寝ちゃえ。明日の朝やればいいや」
という声と、
「今やらないで、明日忘れたらどうするんだ」
という声がして、板挟みになって葛藤が始まる。

このような天使と悪魔が頭の周りをグルグル回るような経験は誰にでもあるだろう。

さらに言えば、すぐにやって良かったということもあれば、
明日の朝やろうと思って忘れて大変なことになったということもあるだろう。
(当然、私もある。つい先日もあった。)

こうしたことは、思いつこうと思って思いついたのではなく、
体の内部から突如として湧き上がってくる。

陽明学では、この声の主を「良知」という。

そして、この良知の声に耳を傾けてそれを発揮すること、
すなわち、実践することを「致良知」(良知を致す)という。

ただ、先ほどの例のように、良知を発揮するには、
ちょっとした努力と工夫が必要なことも多い。

だから、心の中で「まあいいか」とか「めんどうだ」とかいう声が大きくなり、
いつの間にか良知の声を無視する癖がつく。そうすると、心が鈍る。

良知は鏡に例えられる。

発揮する努力と工夫を続けて習慣化すれば、映し出す力が増す。
だから、兆しを知ることができるということである。

いかがだろうか。

「洞察力」や「直観力」は外から得るものでなく、
すでに内にあるものが発揮されるものなのではないだろうか。

教育とはインプットだけかと思いがちだが、
我々の受けてきた教育の弊害だ。

実践と言うと、陽明学で有名なあの言葉も思い出される。
「知行合一」。
次回は、この言葉をめぐる誤った理解について、
「致良知」から考えてみる。

<つづく>

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