2014年12月10日水曜日

『花燃ゆ』①~せっかく群馬と縁があるので

前橋市を走っていると、このような旗が目につく。




来年の大河ドラマ、『花燃ゆ』。
主人公は、吉田松陰の妹、文。

文は久坂玄瑞と結婚したが、彼は幕末の志士として、動乱の中で亡くなる。
その後、文は群馬県令(今で言う知事)であった楫取素彦に嫁ぐ。
楫取は初代県令(正確に言えば、第二次群馬県初代県令とのこと)として、
産業や文化等に功績を残す。

群馬に縁があるということで、観光やイベント等のキャンペーンが行われている。
ぐんま「花燃ゆ」プロジェクト推進委員会


楫取素彦は、吉田松陰の親友だったと言われ、
松陰亡き後、松下村塾を任されたそうだ。

松陰について書こう。

僕の松陰の思い出は小学校の頃に遡る。

小学校高学年になり、日本史を学ぶと、
尊敬する歴史上の人物は誰かという話になる。

ほとんどの子どもたちが、信長、秀吉、家康等のビッグネームを挙げる中、
僕は吉田松陰の名を挙げていた。(かわいくない。)

偉人達の伝記集を片っ端から読んでいた僕に、
「なんだこの生き方は!」と大きな衝撃を与えたのが彼だった。

そんな思いもあり、先日の高崎経済大学の寄附講座でも『留魂録』を取り上げた。

一説を引用させて頂く。

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私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。

『留魂録』 全訳註 古川薫(講談社学術文庫)

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ご存知の通り、松陰の「真心」は、松下村塾の志士たちに受け継がれ、
明治維新への原動力となった。

その思想のバックボーンは、『孟子』であり、『伝習録』=陽明学のバイブルである。

この辺りは、林田明大先生の『志士の流儀』に詳しい。




素彦は「至誠」をもって県政に当たったとされるが、
これは『孟子』の中の一節にある言葉だ。

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至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり。誠ならずして未だ能(よ)く動かす者はあらざるなり
(誠意を尽くして事にあたれば、どのようなものでも必ず動かすことができる。逆に不誠実な態度で事にあたれば、何ものをも動かすことは決してできない)

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この「至誠」という言葉は、陽明学の「致良知」と同じ意味だ。
(長くなってきたので、この話はまたの機会に。)

最後に前出のプロジェクト関係者に提案。

せっかく群馬にご縁があるのだから、観光やイベントだけでなく、
背景にあった思想、彼らの生き方を子どもたちに伝えてはいかがだろう。

彼らの情熱はきっと子どもたちの心に届くはず。
30年前、図書館にいた僕の心を激しく揺さぶったように。

1 件のコメント:

  1. ありがとうございます(*'▽')。吉田松陰、某大手出版社から原稿依頼を受けましたので、書いて見たかったのですが、3~4カ月では今の私の体力では無理なので、泣く泣くお断りしました。
     松陰の思想は、中江藤樹同様、年を経るごとに陽明学に影響を受けて行きます。
     特に、松陰の最晩年のその死生観は、陽明学そのものと言って良いでしょう。死生観=人生観(人生哲学)という事になるのですが、死生観や人生哲学は、まるで無いよりあった方が死への不安や恐怖は、確実に減りますね。
     松陰の首を切った七代目の首切り浅右衛門が語っていますが、松陰は、その死に臨んで、堂々としていたというのは有名な話ですね。
    「悠々として歩を進んできて、役人共に一揖(いちゆう・ちょっとおじぎをすること)し、『御苦労様』
     と言って端座した。
     その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」(松村介石・談) と。

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